北薩・霧島・姶良(風景・街並み)

イリコ最盛期

昭和34年8月、旧川内市の唐浜海岸いっぱいに干されたイリコ。同海岸はイリコの名産地で、いまイリコ製造の最盛期を迎え、“イリコブーム”に沸き返っている、と当時の紙面で紹介している。
昭和34年8月、旧川内市の唐浜海岸いっぱいに干されたイリコ。同海岸はイリコの名産地で、いまイリコ製造の最盛期を迎え、“イリコブーム”に沸き返っている、と当時の紙面で紹介している。
イリコ最盛期
昭和45年、旧川内市の太平橋通り歩道。当初地元住民の反対もあったが、交通量の急激な増加で6.5メートルの歩道を2.5メートルカットし、国道を4車線化することになった、と当時の紙面で伝えている。
太平橋通り
昭和51年、甑島旧里村の米、麦、サツマイモなどを保管する収納小屋。150戸を数えた収納小屋は昭和40年ごろから消え始め、わずか4戸になり、地元で復元保存の話が持ち上がっている、と当時の紙面で伝えている。
甑島の収納小屋
昭和42年、旧入来町の入来温泉郷。副田の入来温泉郷は約700年間、入来院一族のいこいの場であったといわれ、中心部に柴垣湯がある。この一帯の温泉は入来院の直属だったため、土地の人は「殿様湯」と呼んでいる、と当時の紙面で紹介。
入来温泉郷
昭和41年、旧樋脇町の市比野温泉街。「旅館十軒、温泉宿十軒がある。泉質は無色、無臭できれい。三、四年前から湯之元、入来温泉などに客を奪われ、市比野温泉の発展をはかるため温泉振興会-観光協会を作ることになった」と紹介している
市比野温泉街
昭和49年、旧東郷町の商店街。「道幅が狭く車の離合がやっとで歩道もない。建設省が国道のバイパス建設を打ち出したが地元商工会は従来線の拡幅が先決と反対し、『バイパスか拡幅か』で工事は大幅に遅れている」と当時の紙面で伝えている。
旧東郷町の商店街
昭和49年、長島町の指江商店街。同年4月、黒之瀬戸大橋が開通し、「ただでさえ弱い購買力は交通の便がよくなったとたんに島外へ流れ、地元商店などは大型の資本と太刀打ちしなければならなくなった」と、経済情勢の厳しさを伝えている。
長島町指江商店街
昭和53年7月、阿久根大島。当時の紙面では「海開き当日は早朝からあいにくの豪雨。若い男女も寒さにふるえがちだったが、昼ごろ太陽の光がさし込むと、シカも海岸に姿を見せ、たわむれていた」と伝えている。
阿久根大島海開き
昭和51年、阿久根市波留地区の通り。当時の紙面には「舗装道路の左側に三十四本、右側に五十本のしだれ柳が植え込まれ、見事な風景をかもし出している」とあり、同市が戦後初めて都市計画を進めようとしているところ、と伝えている。
美しい柳並木
昭和42年、阿久根市の大川島海岸。「今夏から大川島海水浴場が開かれる。貸しボートも浮かべ、砂がきれいなのと、危険性がないので、子どもや家族連れに最適」と当時の紙面で紹介している。
大川島海岸
昭和51年、阿久根市の落地区。当時の紙面では、同地区は落(おち)姓が多く、地元住民の話として、祖先は平家の出で、「その昔、敵が攻め込んで来た時、撃退しやすいように工夫した一種の“戦略門”」と紹介している。
”戦略門”
昭和45年、阿久根市街地の朝市。「十数人が篭いっぱいに野菜類をつめ、毎朝七時から八時すぎごろまで朝市がたつ。農家の主婦たちが手づくり野菜など、せっせと売りにくるもので、何十年続くかその歴史はわからない」と伝えている。
阿久根の朝市
昭和33年、出水市の仲町商店街。当時の紙面によると、地方商店街がさびれる中、県が同商店街を対象に診断を実施。「診断後、二割の売上げ増をあげたが、各商店がきわめて意欲的だったことが最大の要因とされる」と報じている。
出水市仲町商店街
昭和33年6月、出水市名護の港。「林立する帆柱に張り揚げられた八反帆が青い海の風をそそといだいてゆれ動いている。生エビ取りの網がつるされ、夜の出漁準備に漁師たちはせわしそうに網のつくろいや網つなの整備に大わらわ」と当時の紙面で紹介している。
名護の港
昭和38年、大口市の大口小校庭。当時の紙面によると、江戸末期、伊佐地区初の寺子屋教育が行われた学舎・広業館があった場所で、郷中の青年に漢学と武芸を教えた。明治5年に学制が敷かれ大口小学校として発足した、と伝えている。
大口小校庭
昭和38年2月、大口市山神で材木を運ぶ馬ゾリ。「真っ白なスロープを勢いよくすべる馬ゾリ。馬のはく白い息。どうみてもここが南国鹿児島とはとても思えない風景」と当時の紙面で取り上げている
馬ゾリ活躍
昭和35年、大口市の八坂通り。紙面では「道路舗装工事がこのほど完工。大口市の目抜き通りにあたり、商工業者の喜びは大きい。延長百四十三メートル。これで同市の中心街の舗装は八分通り完成をみた」と報じている。
大口市の八坂通り
昭和30年6月、大口市の曽木の滝。当時の紙面によると、大口市と同観光協会が国立公園にする計画を立てており、「このほど児童公園や植物園、ホテル、展望所などを盛り込んだ“新曽木の滝公園”の建設設計書が完成した」と報じている。
曾木の滝公園計画
昭和51年9月、旧牧園町の国民休養地。当時の紙面によると、乗馬クラブやテニスコート、キャンプ場などがあり「若者たちはゴキゲンなのはもちろん、家族そろって楽しめる施設がいっぱい」と伝えている。
旧牧園町国民休養地
昭和44年10月、旧国分市敷根と旧福山町牧之原を結ぶ亀割峠。紙面は「昭和四十一年に国道十号線のバイパスが開通。以降、牧之原はぐっとモダンになり、国分-牧之原間には七カ所のドライブインが次々と開店した」と報じている。
亀割峠(別名敷根峠)
昭和44年7月、旧隼人町の鹿児島神宮。当時の紙面は「緑のライトを浴びせ、夜空に浮きたたせる投光テストが地元観光協会によって進行中。樹木に反射した光が美しく、三キロ離れたところからもはっきりわかった」と報じている。
鹿児島神宮
昭和39年7月、蒲生町の大クス。当時の紙面は「蒲生小の児童二十五人が手をつなぎ、ようやく根元を取りまけた。三十六年のくれ、根元の空洞に住みついた浮浪者がたき火でボヤをおこし、関係者をあわてさせた」と伝えている。
蒲生の大クス
昭和33年1月、加治木町の舌出し海岸。当時の紙面は、物揚げ場は長さ四十メートル、幅五.五メートル。「来年度から県が二千七百万円の予算で桟橋を着工する予定で、完成すれば五百-千トン級の船も横づけできるようになる」と報じている。
加治木町の舌出し海岸
昭和52年9月、姶良町山田地区の凱旋門。当時の紙面によるとパリの凱旋門ミニ版として明治三十九年に建造。「最近カメラにおさめる好事家がふえ、近所の人たちはにわかモデルを依頼されている」と伝えている。
姶良町の凱旋門
昭和45年、旧川内市の木場茶屋(こばんちゃや)駅。昭和10年ごろは1日100トンの金鉱石を貨車で出していたこともあったが、昭和45年7月の合理化計画で無人化される、と当時の紙面で紹介している。
木場茶屋駅
昭和43年、旧川内市川内駅前のロータリー。当時の紙面によると、「噴水を兼ねた防火水そうにひびが入り、二年前から水は入っていない」とあり、撤去、存続で宙に浮いたままだ、と伝えている。
川内駅前ロータリー
昭和31年、旧川内市の旭織絹川内工場内の様子。昭和9年にできあがり、従業員300名でレーヨンハンカチ月産7万5000ダース、ベンベルグ羽二重生地400反を生産している、と当時の紙面で紹介している。
旭織絹川内工場
明治33年ごろ、川内川に架かる初代太平橋(手前)と架設されたばかりのロンドン・ブリッジ(奥)。初代太平橋は明治8年に完成し、明治33年に廃橋、かわって英国から輸入したロンドン・ブリッジがお目見えした、と昭和38年の紙面で振り返っている。
初代太平橋とロンドン・ブリッジ
昭和31年、旧宮之城町の宮之城東映。「同町本町若松屋呉服店横に百六十坪総工費八百万円で建築、完工式を行った。薩摩郡初のシネスコ上映館でモルタル仕上げの美しいもの」と当時の紙面で伝えている。
宮之城東映
昭和35年、旧宮之城町川口の川内川にかかるつり橋。当時の紙面では「川口と五日町部落を結ぶつり橋で、総工費二百八十一万七千円、橋の長さ九十一メートル、幅一・八メートルの耐久重量七トンの農業専用橋」と報じている。
旧宮之城町つり橋
昭和51年、旧宮之城町の宮之城橋(通称虎居橋)。「宮之城橋の架け替え工事がいよいよ五十一年度から始まる。大正十四年に建設されたもので橋ゲタが多く、また幅五・五メートルとせまく、町民から架け替えが望まれていた」と伝えている。
宮之城橋
昭和39年6月、旧鶴田町の九州電力鶴田発電所。「鶴田ダム建設にともない鶴田発電所は十五日で、四十年間回り続けた発電機を止め、廃止される。当日は発電所取水口の排砂門などをダイナマイトで破壊し、閉所式が行われる」と報じている。
九電鶴田発電所
昭和51年、長島町の長崎鼻灯台。古い灯台を造りかえる海上保安庁の計画に対し、「八十年の歴史を持つ鉄造六角形の灯台は国内でも珍しい貴重な文化財」として地元は保存を訴えている、と報道。その後52年に改築されコンクリート作りになった。
六角形灯台
昭和51年、阿久根市西徳寺の二層の楼門。「二層目が鐘楼を兼ねており、九州ではたった二カ所しかない極めて貴重な建築様式といわれる」と紹介し、「珍しいとあってこのところ見学者がふえている」と報じている。
二層の楼門
昭和45年、菱刈町湯之尾の町営温泉浴場。当時の紙面によると「毎年三十万円程度の赤字続きで、委託経営に切り替えるか、経営合理化をすすめるか、二十年間親しまれてきた浴場も一つの転機を迎えようとしている」と報じている。
湯之尾の町営温泉
昭和37年4月、大口市曽木の滝に完成した曽木大橋の渡りぞめ。「完工式と曽木の滝神社春祭りが開かれ、完成した曽木大橋を見ようと、どっと人がおしかけ、曽木の滝公園はじまっていらいの人出となった」と紙面で報じている。
曽木大橋渡り初め
昭和46年、大口高校の図書館。「来年、創立五十周年を迎えるが、旧制中学時代の面影を残すのは古びた図書館だけとなった。旧校舎がすっかり姿を消すなかで、五十年の歴史をひっそりと語り継いでいる」と紙面で伝えている。
大口高図書館
昭和40年6月、大口市羽月川にかかる大島橋。「長さ五十四・三メートル、幅二・一メートルの木橋で工事費は百十七万円。昨年八月の台風14号で流されたままになっていたのをかけかえたもの」と報じている。
大島木橋
昭和42年、大口市曽木の西太良駅。紙面によると、約300メートル行くと川内川があり、「シーズンになるとコイ、フナなどの釣り客が多く、駅の待ち合い室ではビクから獲物を見せ合い、腕前の自慢話がにぎわう」と伝えている。
西太良駅
昭和31年、大口鉱業所の青化精錬所。「昭和十八年に整備解体したあと十三年ぶりに復活再建された青化精錬所は、建坪五百八坪、一日の処理鉱石量が百二十トン、年間四億円のゴールド生産を目標に操業をつづけている」と伝えている。
牛尾金山の青化精錬所
昭和29年、大口市の薩摩布計金山の精錬所あと。紙面によると、明治34年ごろ鉱脈が相次いで発見され、10年間は黄金時代が続いたが、「昭和十八年金山整備で縮小、二十二年金価格の低廉から操業を一時中止した」と伝えている。
薩摩布計金山精錬所あと
昭和40年2月、大口市の曽木発電所。紙面によると、明治39年1月操業、牛尾金山の動力と家庭用発電に当たり、その後水俣市の新日窒工場へ送電を続けてきたが、「五十九年間回り続けてきた発電機も十四日ストップ」。鶴田ダムの湖底に水没した。
曽木発電所
昭和53年10月、旧栗野町の阿波つり橋。当時の紙面は「橋は長さ四十九メートル、幅一・八メートルで“生活道路”として大正十二年に建設。老朽化が進み、五十二年の役目を終え同月中に取り壊される」と報じている。
旧栗野町の阿波つり橋
昭和43年7月、ホテル林田温泉のプール。当時の紙面によると「変形の二十五メートル五コースとそのまわりに幅四メートル、長さ九十メートルの流動プールが完成。プールわきにはショーを見ながら食事ができるレストラン・シアターが作られた」と伝えている。
旧ホテル林田温泉のプール
昭和53年5月、霧島町のフィールドアスレチック。当時の紙面は「丸木で組んだやぐらの綱渡りや、幅三十メートルの池を綱をたぐり寄せて渡るなど全コース二十三ポイント。大型連休初日は親子連れ三百人が押し寄せた」と報じている。
旧霧島町のフィールドアスレチック
昭和42年3月、旧吉松町の永山橋。当時の紙面によると総工費は六百十七万円で幅二メートル、長さ七十メートル、一部取りつけ木橋二十八メートルの鉄鋼づくり。「同年一月はじめに着工し、このほど完工祝賀会があった」と報じている。
旧吉松町の永山橋
昭和25年6月、霧島観光会館。「ザビエル400年祭記念事業の一環として霧島神宮駅前に建設され、同月5日から観光案内事業を開始した」と報じている。
霧島観光会館
昭和46年2月、旧栗野町にかかる轟橋。当時の紙面は「同町稲葉崎と恒次を結び、通学道として大正十二年に誕生。昭和四十三年のえびの吉松地震であちこちに亀裂が走り、すぐ上流に新しい橋が建設されたため“お役ご免”となった」と報じている。
旧栗野町の旧轟橋
昭和45年7月、霧島高原ユースホステル。紙面によると「鹿児島県内のユース・ホステルは霧島高原や桜島など9カ所。全国からのホステラーも九州ではズバ抜けて多く、10万人以上が来鹿している」と伝えている。
霧島高原ユースホステル
昭和36年6月、旧国分市の敷根農協。紙面によると「国分市役所敷根支所を市から七十万円で買収、補修工事をし移転した」と伝えている。
旧国分市敷根農協
昭和45年、旧牧園町の鶴の湯。当時の紙面によると「コンクリートの階段を五、六段おりたところに料金箱があり、町内の人は十円、町外は二十円。湯つぼはかなり古いが湯量は豊富」と伝えている。
鶴の湯
昭和43年8月、旧牧園町と旧隼人町の妙見温泉郷にかかる鉄橋。当時の紙面は「“一年に二度流される”といわれた粗末な木橋に変わり、雨・風にびくともしない鉄橋が完成。妙見名物が一つ増えたと地元民は大喜び」と報じている。
妙見温泉の鉄橋
昭和39年、旧吉松町の吉松操車場。当時の紙面によると「同町は国鉄関係職員が多く、家族を入れると人口7600人の約4割が国鉄関係者。一日に貨車200両が吉松駅から発着し、350両を中継する鉄道の町だ」と伝えている。
吉松操車場
昭和40年1月、旧国分市の特攻機発進の地記念碑。紙面によると「昭和二十年に国分基地から出撃した特攻隊員の母と兄弟が、隊員の最後の足跡を残した同基地の土を踏み、二十年ぶりの念願を果たした」と伝えている。
特攻機発進の地記念碑
昭和26年、旧東国分村の役場。当時の紙面によると、同村は五十町歩(約50ヘクタール)でタバコをつくり、品質がよいのが自慢。「特殊な“炭焼ガマ”で木炭も製造している」と伝えている。
旧東国分村役場
昭和30年5月、加治木町の中野小学校。紙面によると、同小は百三十二.五坪、施工費二百四十三万円。「生徒数は九十一名で同月二十一日に落成式が行われた」と伝えている。
加治木町の中野小学校
昭和46年5月、旧霧島町の北永野田駅。紙面によると「駅は標高三百二十九メートル、日豊線で一番高い。一日乗降客は八十人。初代の駅員たちが植えたツゲが直径三メートルほどのまんじゅう型に刈り込んであるのが美しい」と伝えている。
北永野田駅
昭和26年、蒲生町の製紙工場の仕上室。紙面によると、同町は和紙協同組合などの製紙工場があり、年産七百二十万円。「蒲生紙は三百年の歴史を持ち、川でこうぞを洗う乙女の姿は蒲生の横顔ともいれる」と伝えている。
蒲生製紙工場

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