第11~20回大会(駅伝)

【第11回県下一周駅伝】最後まで堂々と

開会式、選手宣誓する鹿児島チームの野中選手=昭和39年2月14日
開会式、選手宣誓する鹿児島チームの野中選手=昭和39年2月14日
【第11回県下一周駅伝】最後まで堂々と
第1日1区、本社前を一斉にスタートする選手団=昭和39年2月15日、鹿児島市
栄冠のゴールを目指し
第1日、地元指宿の吉元選手に伴走する元駅伝選手の入野さん=昭和39年2月15日、旧山川町(現在、選手への伴走応援はできません)
車の間をスイスイ
第1日、サツマ富士をバックに九玉小児童のかわいい声援をうけ、トップを快走する富山選手(出水)=昭和39年2月15日、旧頴娃町御領
薩摩路を快走
第2日、無念!踏切で列車の通過を待つ新沢選手(川辺)=昭和39年2月16日、旧伊集院下谷口踏切
興奮のウズ 薩摩半島を北上
第2日、加世田中のブラスバンドの声援を受け、加世田市役所前を出発=昭和40年2月19日
【第12回県下一周駅伝】二日目スタート
第2日、トップグループのせり合いに声援をおくる小学生=昭和40年2月19日、金峰橋
快晴の南薩路を北上
第3日、アベベにつづけ 快走する船迫選手(日置)=昭和40年2月20日、南瀬小前
快調
第4日、岩川中継点30メートル前で倒れ、はいながら中継点に向かう山口選手(大口)=昭和40年2月21日
大隅路に燃やす根性
第4日2区、桜島をバックにせり合うのは柳(川薩)と木ノ上(大口)の両選手=昭和40年2月21日、亀割峠
難所!亀割峠
第1日、赤ちゃんを抱いて応援する中野選手(川辺)の奥さん、テルさんと愛息の明人ちゃん=昭和41年2月18日、知覧町
【第13回県下一周駅伝】父ちゃんキバレ!
第1日、手づくりのノボリを立て沿道から応援=昭和41年2月18日、開聞小学校前
渦巻く声援(第1日)
第2日、ガン、ガン、ガン、ガンバレーとドラムカンまかりでる=昭和41年2月19日、旧日吉町住吉
渦巻く声援(第2日)
第3日、雨の中力走をみせる谷口選手(出水)=昭和41年2月20日、牧園町中継所
雨と汗と泥と
最終日、鹿屋航空隊員と鹿屋第一中生の声援の中を一団となり力走する各選手=昭和41年2月22日、鹿屋市
息をのむ”ラストの攻防”
第3日、一団となって太平橋を走破する選手団=昭和42年2月20日、旧川内市
【第14回県下一周駅伝】デッドヒート ベテランも新人も
第4日、にいさんごくろうさん、あとは引き受けた(曽於の田畑兄弟)=昭和42年2月21日、末吉中継所
力走・興奮・声援
最終日、2区のヤマ場で折田選手(鹿児島)を抜いてトップに立つ生駒選手(日置)=昭和42年2月22日、垂水市俣江
拍手収めぬ観衆
最終日、新聞紙をつなぎ合わせた大ノボリに“キバレ”の文字を大書、地元の田中選手をはげます福山小の児童たち=昭和42年2月22日、旧福山町
鹿児島の追撃振る
最終日、花ふぶきをあび優勝のテープを切る西野選手(日置)=昭和42年2月22日、旧南日本新聞社前
日置、12年ぶり優勝
昭和43年2月18日、「がんばれ大島」「健闘川辺」など全チームのノボリをつくって声援する開聞小の児童たち。紙面では「県下一周駅伝は絶好の“駅伝日より”で開幕した。初日のハイライトは最終区、知覧署ー加世田間17.1キロ、長距離界のエース船迫、浜田、田中の3選手が郷土の期待をになって出場。根性の見せ場を展開した」と紹介していた。
【第15回県下一周駅伝】したたる汗、根性むき出し
昭和43年2月17日、白バイに守られ、鹿児島市鴨池を一団となって力走する先頭グループ。夕刊紙面では「早春の薩摩路を一路南下する駅伝初日。各チームも最初から猛烈なスパート。(中略)うららかな春の陽光のもとに、きびしい勝負の世界が展開された。500メートルも引き離したかと思うと、すぐまた追い抜かれる波乱。力と力がまともにいぶつかるツバぜり合い-沿道のどよめき、小旗の波がそのたびに大きくゆれ動いた」と伝えている。
陽光 一気に薩摩路南下
昭和43年2月20日、県下一周駅伝3日目で胸つき八丁の坂でせり合う川辺と曽於の両選手。当時の紙面は「この日の圧巻は3,4区の宮之城-求名-西太良間23.9キロのレース。坂の難所、“汗と根性”の激闘だった。(中略)さすがは北薩の尾根地帯。“霧島おろし”が身をさすように冷たい。寒さと坂と-選手の足は重くなる」と報じている。
胸つき八丁に挑戦 「霧島おろし」なんのその
昭和43年2月19日、力走する選手にかわいい声援を送る山川町の大成小学校児童ら。当時のグラフ特集紙面によると「出場の選手が激しくせり合えば、沿道では応援合戦。鼓笛隊やのぼり、黒板までくり出して『がんばれ、きばれ』と駅伝気分は高まる一方だ。(中略)くふうこらして“紙芝居”式応援『指宿きばれ』と大成小の児童も声援」。
山川町でかわいい声援
昭和44年2月16日、駅伝コース沿道に集まった応援の人々にCMガールが応援旗を配布。当時のグラフ特集紙面に「第16回県下一周駅伝第1日は鹿児島-加世田の11区、133.5キロで行われた。(中略)レースは各チームとも浮沈が激しく,上位下位でデッドヒートが繰り広げられた。先導車で沿道の地区民に応援旗を配るCMガール」などと紹介されている。
【第16回県下一周駅伝】駅伝応援の旗を配るCMガール
昭和43年2月22日、21日の県下一周駅伝最終日は雪に見舞われ、垂水市牛根付近で降りしきる雪の中をひた走る選手たち。当時の紙面では「天候の番狂わせが最終日に起きた。一面の銀世界に、最終レースは心配された。(中略)だが沿道には、この天気に関係なく、声援する住民がずらり。カサをさした小学生の列、外とう姿の自衛隊員、オーバーやネンネコ姿の主婦-雪の大隅路は意外ににぎやかだった」などと紹介していた。
雪の駅伝最終日 やまぬ歓声の渦
昭和44年2月18日、宮之城中継点で健闘した大島チームの選手をいたわる地元婦人会の方々。紙面では「県下一周駅伝第3日のフィナーレ。遠来の大島チームに寄せる温かい声援はこの日だけでなく、コースのあちこちで選手たちを励まし続けている。(中略)宮之城中継点では走り込んできた初出場の屋信考選手を同町の婦人会員が、わが子をだきかかえるようにして力走をたたえ、暖かいお茶で元気づけていた」と伝えている。
ガンバレ大島勢 選手いたわる宮之城婦人会
昭和44年2月17日、雨に濡れた金峰町役場前を一団となって走る選手たち。当時の特集紙面に「県下一周駅伝の2日目、各チームのかけ引きも火花を散らす。国道3号線の北薩路は行楽のマイカー族の声援もまじえて熱気をはらむレースにわいた」「郷土通過の日置、川薩が奮闘したものの後半じりじり追い上げた出水は前日の川辺と同様、最終区で逆転。(中略)レースは第1日と同じく目まぐるしく順位が入れ代わる激戦だった」と紹介されている。
雨に濡れた道、健脚競う
昭和44年2月19日、県下一周駅伝第4日は出水、曽於チームが大接戦の末、ほとんど同時にゴールイン。当時の紙面は「白熱したレースで曽於のアンカー山村が出水・富山に体一つの差をつけてゴールインしたが、曽於に反則があり、5秒を加算されたため、日間優勝は出水がとった。レースは最終区まで激しい上位争いを展開、3位の出水が追い上げて1位の曽於をとらえ、ゴールまでもつれ込む白熱したレースだった」などと報じている。
鹿屋市役所前に出水、曽於が並走してゴール
昭和44年2月19日、県下一周駅伝4日目は大隅路に入り熱狂、「きばれ、ドンドン、カンカン」-志布志町安楽では黒装束での応援も。当時の紙面によると「末吉-志布志の各町民は熱烈な曽於ファン、トップを行く姶良を追って同チームがじりじり差を詰めると沿道の人がきがわいた。(中略)8区の中間点付近には異様な黒装束の集団が現れて『がんばれ、がんばれ』と鐘や太鼓で応援。志布志町下安楽青年団の正月踊り(お市後家女踊り)の一行で、馬場口隆一団長は『駅伝と旧正月が一致したので応援を買って出た』という」。
”お市後家女踊り”の黒覆面踊り子がにぎやかに応援
昭和45年2月14日、第17回県下一周駅伝がスタート、初参加の沖縄チームに沿道から声援。当時の紙面は「ことしは隣県・沖縄の精鋭が、澄み渡る空と海を象徴したライトブルーのタスキをひっさげて参加した。(中略)『チバリョー』と鹿県在住沖縄県人会の与那嶺会長、石原副会長ら数人の人たちがノボリを立てて声援した」などと報じている。
【第17回県下一周駅伝】沖縄勢にさかんな声援
昭和45年2月15日、県下一周駅伝第1日目は2年後の日本復帰が決まった沖縄が参加、南薩路の声援もひときわ大きく。当時の紙面は「早春の日ざしの中を13人の選手が一斉に飛び出した。(中略)初めて道路左側を走る沖縄選手も第2集団で熱戦を繰り広げ、レースを盛りあげた。沿道の人がきは全部沖縄の応援団のよう。『祖国復帰目ざしがんばれ』などと書いたのぼりを立て、割れるような拍手を浴びせて隣県チームを励ます」と伝えていた。
春がすみの開聞岳をバックに力走する選手ら
昭和45年2月17日、県下一周駅伝第1日目で、遠来の沖縄選手にもチビッ子の応援。選手らは本土に力強く足跡をしるすように力走、初日を7位で終えた。当時の特集紙面に「西頴娃駅前で『沖縄がんばれ』の横断幕で声援する宮脇小の児童たち」と紹介されている。
「沖縄がんばれ」の横断幕をかかげる児童たち
昭和45年2月17日、県下一周駅伝第3日目に伊佐チームが大口市役所前で、トップでタスキリレー。当時の紙面では「沿道の歓声が車の中に飛び込んでくる。大会史上初めて、トップの郷土入り。伊佐チームは12チームをうしろにしたがえて伊佐平野を突っ走った。(中略)3区から7区まで首位を守りきった。後半、大会優勝をねらう日置、姶良、曽於に抜かれたが、日当山のゴールでそれでも日間4位」と伝えていた。
熱狂する観客の中、首位でリレーした伊佐チーム
昭和45年2月19日、垂水市諏訪でトップに立つ姶良チームの曽山選手。紙面では「2区で姶良が巻き返して、以後姶良が終始トップを独走。初の日間優勝を飾るとともに大会初の総合優勝をなしとげた。(中略)4日間走ってトップ日置と2位姶良の差はわずか2秒。最終日は日置やや有利と思われたが、姶良があっさり予想をひっくり返した。(中略)“万年優勝候補”の汚名を返上し、念願の初優勝を果たした」などと報じていた。
最終日、姶良が2区から独走
昭和45年2月18日、県下一周駅伝最終日は姶良がトップでゴール、念願の初優勝。当日の夕刊紙面では「優勝の行方はどたん場まで決まらず激戦となったが、姶良チームが各区間をよくがんばり、最終走者・谷口選手がトップで本社前(旧社屋・鹿児島市易居町)ゴールにとび込み(中略)初めての優勝が決まった。(中略)沖縄チームはこの日も力走を続けて2位でゴール、総合成績も6位となった。ざっと1万人の人がつめかけ、次々とゴールインする13チームに拍手をおくった」と伝えている。
姶良が初優勝、沖縄健闘日間2位でゴール
昭和46年2月13日、第18回県下一周駅伝が開幕。市郡代表の12チームと遠征2回目の沖縄チームが参加して行われた。写真は鹿児島市新屋敷町。
【第18回県下一周駅伝】薩摩路に白熱のレース
昭和46年2月13日、鹿児島市谷山中継点。紙面は「小学校の児童たちは全選手にえこひいきなく声援」と伝えている。
選手に声援を送る小学生
昭和46年2月14日、串木野市(現いちき串木野市)。「全国一の腕をもつ串木野女子高ソフトボール部のオゴジョ」が沿道から声援、「選手はニコニコとうれしそう」と伝えている。
串木野女子高のオゴジョが声援
大会3日目の昭和46年2月15日、大口市(現伊佐市)西太良。当時の紙面は「大島・岡江選手は、倒れながらタスキを渡した和田選手へ祈るようなまなざしを向け続けた」と伝える。
タスキ渡し、倒れる選手
昭和46年2月15日、大会3日目を終えた日当山の熊毛宿舎。「互いにマッサージをしながら談笑するひとときは緊張がとける」と紙面は伝える。
宿舎で談笑する熊毛チーム
第18回県下一周駅伝4日目の昭和46年2月16日、鹿屋市。前日1位でゴールした沖縄が曽於、肝付、川辺との差を広げ、再び1位でゴールインした。写真は紙吹雪の舞う同市役所前ゴールに飛び込む、大島チームの岡山選手。
鹿屋市役所前ゴールに飛び込む大島チーム
昭和46年2月17日、第18回県下一周駅伝最終日。福山小児童の声援を受け、スパートする右田選手(鹿児島)。「沖縄と鹿児島の激しい優勝争いは、鹿児島が2分差を逆転し7年ぶり7回目の優勝で幕を下ろした」と紙面は伝えている。
鹿児島が7回目の優勝
昭和47年2月12日、第19回県下一周駅伝が開幕。5月に本土復帰する沖縄をはじめ12チームが健脚を競った。写真は鹿児島市易居町の旧南日本新聞社社屋前。
【第19回県下一周駅伝】快晴の薩摩路をひた走り
昭和47年2月12日、第19回県下一周駅伝第1日、5区指宿郡山川町成川(現指宿市)の通称山神通りの沿道。12日が夫婦そろって88回目の誕生日という“米寿夫婦”が応援に繰り出した。ご夫婦は近くの農業、前園助一さんと妻イセさん。イセさんは「長生きしっせえ良かった。来年もまた応援に来っがね」とコメント。
”176歳”の応援
昭和47年2月12日、第19回県下一周駅伝第1日は混戦を制した日置が日間優勝を果たした。写真は大勢の観衆が詰め掛けた加世田駅前。
1日目 日置が1位でゴール
昭和47年2月14日、第19回県下一周駅伝第3日の西太良教場中継点(現伊佐市)。バトンタッチ後、沖縄・比嘉選手(左)を介抱する茅野選手(川辺)。
戦い進めば…
第19回大会3日目の昭和47年2月14日、隼人町(現霧島市)日当山。転倒した選手にとっさの介抱をする白バイ警察官。
放っちゃおけぬ
昭和47年2月15日、第19回県下一周駅伝第4日。財部町(現曽於市)を初めて駅伝が走った。町民2000人の大声援を受け、地元曽於チームがトップで中継点に到着すると、花火が上がり「まるでゴールに飛び込んだような騒ぎ」。
初めて駅伝走った財部町
昭和47年2月16日、第19回県下一周駅伝最終日、3区の垂水市牛根。激しいトップ争いを繰り広げる翁長選手(沖縄)、川崎選手(鹿児島)、浜田選手(川薩)。紙面は「日置チームが5年ぶり3回目の総合優勝を飾った」と伝えている。
日置が5年ぶり3回目の優勝
昭和48年2月9日、第20回県下一周駅伝開会式。写真は「正々堂々と戦うことを誓います」と力強く選手宣誓する、昨年優勝の日置地区代表松元公男選手。「過去3年連続オープン参加していた沖縄が出場を見合わせ、かわって伊佐地区が2年ぶりに、郷土の声援を受けて出場、各市郡代表の12チーム全部が出そろった」と紙面で報じている。
【第20回県下一周駅伝】開会式
昭和48年2月10日、第20回県下一周駅伝スタート。「観衆約3000人が見守る中、午前8時半号砲を合図に、12選手が一斉に飛び出した。過去19大会で初日に日間優勝したチームが11回の総合優勝を飾っているだけに、この日にぞくぞく切り札を投入した」伝えている。写真は、第1区鹿児島市武之橋で、激しく競い合い力走する12チームの選手。
大歓声うけ薩摩路熱戦
昭和48年2月10日、第20回県下一周駅伝第1日目。開聞岳をバックに、力走する選手。6区・頴娃町で川辺チームの市坪選手が、肝属の小牧選手を抜く。
開聞岳をバックに力走
昭和48年2月10日、第20回県下一周駅伝第1日。加世田駅前で、アンカーの鶴丸選手を胴上げする川辺チーム。「第1日、最長距離の激戦は下馬評通り地元、川辺チームが優勝を飾った。初日を制するチームは総合優勝に一番近づく。優勝したい。まだ一度も優勝という美酒を味わったことがない。川辺地区民の執念で総合優勝への第一関門が今、開かれた」と紙面で報じている。
念願の日間優勝 川辺
昭和48年2月10日、第20回県下一周駅伝第2日。阿久根駅前中継所でガンバレ、ガンバレと手をたたいて応援する人々。
沿道で声援贈る
昭和48年、第20回県下一周駅伝第2日。加世田市役所前から出水市役所をめざし10区間117.3キロのコースで健脚を競った。写真は6区川内市内での野間口(鹿児島)田中(川辺)の激しいトップ争い。「川辺と鹿児島が最終区まで激しい首位争いを演じ、沿道を湧かせた。鹿児島のヤング勢が奮起一番、川辺を最終区でとらえ引き離した」と報じている。
ヤング勢頑張る 鹿児島日間優勝
昭和48年2月12日、第20回県下一周駅伝第3日。さつま町求名中継所でオイからオジへのバトンタッチ。谷口選手と田中選手(姶良チーム)。
オイからオジへバトンタッチ
昭和48年、第20回県下一周駅伝第3日。写真は3日目川内市内で、川井田(肝属)を先頭に浜田(鹿児島、2位)ら各チームのエースが走る一区の様子。紙面では「1区は15.3キロの長丁場。レースの主導権を握ろうと各チーム、とっておきのエースをそろえた。鹿児島の浜田は自身の18回大会で作った記録を23秒縮め、区間新記録でゴールした」と報じている。
浜田、区間新の独走
昭和48年、第20回県下一周駅伝大会。指宿中継所で婦人会も選手の介抱に大わらわ。紙面では「初日の5区の中継点になった指宿駅前。婦人会員が全力を出し尽くした選手を抱きかかえるようにして休憩所へ。それぞれ担当チームがあったが選手を見るとそれを忘れて全員が駆け寄って介抱する。汗を拭いたり、お茶を出したり、まるでわが子の様な世話ぶり。感激した選手らはいつまでも別れを惜しんでいた」と報じている。
駅伝盛り上げる 婦人会ハッスル
昭和48年、第20回県下一周駅伝大会第3日。2年ぶりに力走する伊佐チームが、大口市役所前中継所を上位通過すると、沿道はわきにわいた。紙面では「“おらが町のチーム”を応援できる喜び-。2年ぶりに県下一周駅伝に“復帰”、精一杯の健闘を続けている伊佐チームが晴れの地元入り。地元ファンは目の前を走る郷土の“代表”選手に声を枯らしていた」と報じている。
伊佐路に久々大歓声
第20回県下一周駅伝大会。出発前、コースの打ち合わせをする白バイ隊。「県下一周駅伝を先導する白バイ隊。走る選手の安全を第一に沿道整理に当たり、車の洪水の中を泳ぐように運転する。白バイが走り抜けると小中学生の『かっこいい』との声。テレながら走る白バイ隊も大会を支えている」と報じている。
神経ピリピリ 白バイ隊
昭和48年、第20回県下一周駅伝大会第3日。隼人町(現霧島市)新川発電所前でアンカー地頭所(川辺)が岸尾(鹿児島)を追い抜いてトップに立つ。「首位争いを演じる川辺と鹿児島のレースは、すさまじかった。川辺は5区から2位を堅持、トップを走る鹿児島にピタッと食いつき最終区で見事に捕まえ、日間優勝を飾った」と紙面で報じている。
川辺トップ 最終区で逆転
第20回県下一周駅伝大会第4日。隼人町(現霧島市)で一団となって力走する各選手。紙面では「大会第4日、舞台を薩摩路から大隅路に移して日当山-鹿屋間で、熱戦が展開された。川辺、出水、鹿児島にまじって郷土入りする曽於、肝属の両チームが激しく上位を争った」と報じている。
地元勢、上位で通過
第20回県下一周駅伝大会第4日。末吉町(曽於市)岩崎中学校付近で曽於・北野選手、川辺・上窪選手を抜いてトップに立つ。紙面では「大会第4日、肝属、曽於が常に上位を走り、沿道は大いにわきかえった。地元を走る曽於と郷土入りの肝属が健闘、上位を突っ走り、肝属は昨年に続いて日間優勝を飾った」と報じている。
肝属、日間優勝を飾る
鹿児島県民を熱狂させた第20回県下一周駅伝は、鹿児島が浜田の快走で逆転し日間優勝とともに総合優勝に輝いた。紙面では「首位に立っていた川辺は、逃げ切りをはかったが、7区で浜田につかまり、2位に泣いた。ゴール前では5日ぶりに駅伝チームが帰ってくるとあって5000人以上の人がきでうまり、優勝チームの到着を待っていた」と報じている。
鹿児島 最終日に劇的逆転
第20回県下一周駅伝大会閉会式。優勝した鹿児島チームの佐々木選手へ優勝旗の授与。紙面では「ことしで20回目を迎えた同大会は、参加12チームの力一杯の健闘、盛大な沿道の声援、数々の話題をふりまいて“はたちの駅伝”にふさわしい盛り上がりを見せた」と報じている。
鹿児島勢に優勝旗

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