首里城地下に張り巡らされた第32軍司令部壕の関連施設=6月12日、那覇市の首里城公園
80年前の今ごろ、沖縄では日本軍の絶望的な抗戦が続いていた。1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍を迎え撃つ日本軍を率いたのは、鹿児島市出身の牛島満・第32軍司令官。「軍官民共生共死」の掛け声のもと、沖縄県民を「根こそぎ動員」して軍に組み込み、戦略持久戦を繰り広げた。首里の地下壕(ごう)にこもっていた日本軍司令部が本島南部に撤退した5月末以降、多くの一般市民が「鉄の暴風」にのまれ、無残な死に追いやられた。
沖縄県読谷村の不発弾保管庫で9日、爆発事故があり、陸上自衛隊員4人がけがをした。県内で回収された戦時中の不発弾を一時保管するために県が設置し、陸自が管理する施設だ。
米英軍は45年3月に沖縄に侵攻し、約3カ月間にわたって絶え間ない艦砲射撃や空爆を加えた。島は爆音に包まれ、街や村で鉄片と爆風が人の体を引き裂き、吹き飛ばした。野山や田畑を変容させた。殺りくと破壊のすさまじさは「鉄の暴風」の言葉で語り継がれている。
「沖縄県史 各論編6 沖縄戦」によると、米軍は沖縄戦の約3カ月間で約20万トンの砲弾や爆弾を使った。日本本土に米軍が投下した爆弾総量約16万トンを上回る攻撃が島に集中した。
何らかの理由で起爆せず、いつ爆発するか分からない状態で残されたのが不発弾だ。沖縄では80年たった今でも、工事現場や耕作地の地中から日常的に見つかる。その度に陸自第101不発弾処理隊が対処している。未回収の不発弾は推定約1900トン。年間の平均処理量を20トンと仮定して、全てを処理するにはさらに100年近い年月が必要という。
■3カ月で死者20万人
沖縄戦前の沖縄県の人口は約60万人。マリアナ諸島の陥落が確定的となった44年7月以降、政府の計画に沿って県外に疎開した学童や高齢者もいたが、約50万人が戦闘に巻き込まれたとみられる。
戦後、米施政権下の琉球政府が推計し現在の総務省ホームページにある「沖縄県における戦災」で紹介されているデータによると、沖縄戦の戦没者は日米合わせて20万656人。内訳は一般県民9万4千人、沖縄県出身軍人軍属2万8228人、他都道府県出身兵6万5908人、米軍1万2520人となっている。
軍人と違って一般県民の人数が大づかみなのは、詳細な記録がないからだ。県民の死者数は15万人との推定もある。民間人の死者が軍人を大きく上回ったのは間違いない。
■米軍の無差別攻撃
一般県民が犠牲になったのは、主に米軍による戦闘員、非戦闘員を問わない攻撃の結果だ。艦砲射撃や空爆で軍事施設以外の学校や病院、民家も無差別に攻撃した。住民の潜む壕の上に陣取って爆雷やガス弾を投げ込んだり、ガソリンを流し込んで火をつけたりする「馬乗り攻撃」で容赦なく殺傷した。
一方、日本兵による加害も無視できない。沖縄方言を話す県民にスパイの疑いをかけて惨殺したり、米軍に投降しようとする住民を非国民扱いして殺したりした。兵士の食糧確保のために壕を追い出され、砲弾の降り注ぐ中をさまよわねばならなかった住民も少なくなかった。
■戦略持久戦の選択
一般県民の死者数が膨れあがった背景に、日本軍の作戦構想がある。
米軍は沖縄戦に約54万人を投入し、そのうち18万3千人が上陸した。日本軍11万人のうち、2万数千人は現地召集の防衛隊や学徒隊だ。20年3月公布の国民勤労動員令に基づいて15歳から45歳の男女が「根こそぎ動員」された。隊員の中には小銃が行き渡らず、武器は手りゅう弾と竹やりという兵もいた。
第32軍が目指したのは、できる限り戦闘を長引かせて米軍の消耗を強いる戦い方だ。艦砲射撃や空爆は洞窟陣地にこもって耐える。米歩兵が近づけば地上に顔を出して反撃する。夜間は敵陣に肉弾戦を仕掛け、米兵を殺傷する。勝つことはないが、大きく負けもしない。本土決戦に向けた時間稼ぎとしての戦略持久戦である。
じりじりと後退しながら応戦する第32軍は、米軍を苦しめた。米戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる戦いに持ち込んだ、牛島司令官の指揮を評価する米軍関係者は多い。
ただ、持久戦の継続は戦死者の漸増を意味する。現地召集の県民も、敵陣地に切り込んだり、爆弾を背負って敵戦車の下に飛び込んだりという捨て身の攻撃に駆り出された。
首里城地下には総延長1キロ超の司令部壕が張り巡らされ、牛島司令官ら千人が陣取った。電灯がともり、炊事場や浴場もあった壕は艦砲射撃や爆撃にも耐えられた。
だが5月下旬、米軍が首里に迫る。司令部内には司令部壕にとどまって戦うべきとの主張もあったが、牛島司令官の選択は南部撤退だった。糸満市摩文仁〔まぶに〕に司令部を移し、本島南部を決戦場と定めた。
■6月に4万7千人
住民も南部へ移動した。民間人も役人も軍と運命を共にする「軍官民共生共死」の理念が浸透していたから、他の選択肢はなかった。砲弾が降り注ぐ避難路は軍民が入り乱れ、人々は飢えと渇きに苦しみながら南に歩を進めた。至る所で、兵士や住民の無残な遺体が野ざらしになった。
この6月だけで約4万7千人の県民が命を落とした。沖縄戦戦没者を時系列に集計すると、45年6~12月の死者の占める割合は糸満市が70・6%、豊見城市は78・2%、南風原町は70・7%とされる(「沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか」林博史)。
軍の組織的戦闘の継続が不可能になったことを悟った牛島司令官は、6月22日に摩文仁の壕で自決した。自決は23日とする説もある。日本兵の抵抗や住民の犠牲はその後も続いたが、沖縄県は23日を「慰霊の日」と定めた。独自の休日とし、摩文仁の丘で県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開かれる。
●鹿児島市に牛島満司令官の碑と辞世の句
沖縄戦で日本の第32軍を率いた牛島満司令官は、穏やかで悠然と構えた軍人像で語られることが多い。沖縄戦を生き残った軍人が戦後記した著書などでも、その温厚な人柄がたたえられている。
元沖縄県知事の故大田昌秀さんは、2006年に南日本新聞の取材に「顔を合わせれば『ご苦労さまです』と声を掛けてくれる、優しい好々爺〔や〕といった印象」と語ったことがある。大田さんは沖縄師範学校在学中に動員され「鉄血勤皇師範隊」の一員として沖縄戦に参加し、牛島司令官の身近で働いたことがあった。
ただし、人格と沖縄戦での判断の検証、評価は混同できない。
45年5月末の、南部撤退の選択が県民の犠牲増を招いたのではないか。自決前に生存者に投降を促していれば、勝敗が決した後の住民の自決や兵士の無謀な突撃はなかったのではないか。軍人の美化や英雄視を警戒する人がいるのも当然だろう。
鹿児島市加治屋町の甲突川左岸緑地に、牛島満・第32軍司令官の「生い立ちの碑」がある。1980年6月23日に立てられた。側面に刻まれた建立期成会委員には、当時の鹿児島の政財界60人余りの名が連なる。裏面には〈秋を待たで 枯れゆく島の 青草は 皇国の春に よみがえらなむ〉の辞世の句も刻まれている。
(2025年6月15日紙面掲載)