非人道的作戦の先例を作った日本軍の重慶爆撃は、今に至る反日感情の根源に…作戦では鹿屋の海軍航空隊も重要な役割を果たす

2025/10/06 12:00
重慶市内に現在も残る防空洞。商店や飲食店として使われている洞も多い(江山さん提供)
重慶市内に現在も残る防空洞。商店や飲食店として使われている洞も多い(江山さん提供)
 無差別爆撃といえば、米軍の日本本土空襲が想起される。アジア・太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、鹿児島県内を含む全国の都市に空爆を繰り返し、街を住民もろとも焼き払った。そんな非人道的な作戦の先例をつくったのは日本軍だ。38年以降、中国の臨時首都・重慶への戦略爆撃を5年以上継続した。鹿屋市の海軍航空隊(鹿屋空)も重要な役割を果たした。「暴支膺懲(ぼうしようちょう=横暴な支那を懲らしめよ)」といった言葉が日本国民の戦意をあおり、無差別殺傷の残虐性に目が向けられることはなかった。

 37年7月7日、北京の南西15キロにある盧溝橋(ろこうきょう)付近で、日本陸軍が夜間演習を敢行した。中国軍の駐屯地から数百メートルの場所だ。終盤、日本部隊に数発の実弾が飛んできた。これを中国軍による不遜な「不法射撃」と見なした日本軍は、翌朝、膺懲(懲らしめる)のための反撃を開始した。

 11日には現地で停戦協定が成立する。だが、当時の日本陸軍首脳部では、日本の強さを見せつけて中国を屈服させるべきという「中国一撃」論者が幅を利かせ、慎重派を抑え込んだ。

 同日、近衛文麿内閣が「重大決意」を表明した。中国に「排日侮日(日本を排除し、侮辱する)行為を謝罪させ、今後こんなことがないように保障させる」ために派兵するという内容だ。局地的、偶発的な武力衝突を本格的な戦争に拡大させ、8年にわたる日中戦争の泥沼に踏み込んだ。

■独断専行で南京へ

 日本軍は北京や天津を総攻撃し、8月13日には上海に戦火が及ぶ。第2次上海事変だ。抗日救国意識を高めた中国軍は士気も高く、日本は9回にわたって兵力を逐次投入。5万人以上の戦死傷者を出した末にようやく3カ月後、上海全域を制圧した。

 戦ったのは陸軍だけではない。海軍航空隊は長崎県の大村基地や、当時日本領だった済州島から攻撃機を発進させる渡洋爆撃に踏み切った。鹿屋空からも36年に制式採用されたばかりの96式陸上攻撃機(96式陸攻)部隊が台湾の台北に展開し、海を越えて中国軍拠点を反復爆撃した。

 上海陥落は戦闘終結の潮時に見えたが、現地の日本軍中支那方面軍幕僚は独断専行で南京攻略作戦を発動する。宣戦布告すらせず、戦争の目的や終結の青写真もないまま、大本営は戦線拡大を追認した。新たに投入された部隊の中には、鹿児島市伊敷に本拠地を置く郷土部隊・陸軍歩兵第45連隊もあった。

 31年の満州事変以来、蒋介石率いる国民政府は不抵抗主義をとってきた。日本軍との戦力の差が大きかったからだ。だが、37年当時は近代的な軍備・編成、装備を持つ国防軍に成長していた(「日中戦争全史・上」笠原十九司)。一撃に屈する相手ではなくなっていたが、新聞は南京一番乗りを競う各部隊の「快進撃」や渡洋爆撃の「壮挙」を書き立て、国民は武勇伝を心待ちにした。

■鹿屋空も漢口進出

 上海から南京、武漢と奥地に退きながら抗戦する中国軍を、日本陸軍は追撃した。37年12月に南京、38年10月に武漢が陥落する。国民政府はさらに内陸の重慶を臨時首都として抗日姿勢を固めた。

 武漢から重慶までは直線距離で780キロ。険しい山々や激流に阻まれ、陸上部隊の進撃は難しい。そこで練られたのが長距離爆撃だ。武漢の漢口に築いた基地を拠点に、重慶や周辺都市を空爆することになった。

 海軍内には、日中戦争の拡大を歓迎する勢力があった。東南アジアの資源確保のため、海軍が長期的展望の軸に据えていたのは、太平洋を挟んだ米国との対決だ。この仮想敵国と戦うには、軍備拡張と戦闘力強化に国力を注ぐ理由が必要になってくる。中国軍との戦闘を大海軍主義の構想を実現する好機と捉えた。

 38年12月26日、まず陸軍機22機が重慶を爆撃した。初期に投入されたのは陸軍機90機、海軍機50機程度。その後、海軍機は200機以上に増強され、作戦の主軸になっていく。最盛期には300機以上の陸海軍機が武漢一帯に集結した(「重慶爆撃とは何だったのか」戦争と空爆問題研究会)。

 鹿屋空の96式陸攻部隊も漢口に進出し、攻撃の主軸となった。

■屈しなかった中国

 重慶爆撃は43年まで断続的に続けられた。特に激しかったのは39~41年だ。中でも39年5月3、4日は市街地を集中攻撃した。3日は45機、4日は27機の96式陸攻を投入。市民ら約4000人の命を奪ったとされる。

 重慶市民は岩山を掘った防空洞に避難して空爆をしのいだ。高台や交通の要衝にはランタンの掲揚台が設けられた。赤ランタン一つは日本軍機が漢口を発進、赤二つは重慶到達間近のサインだ。

 戦略爆撃の目的は、住民の生命財産を奪い続け、恐怖と疲労で戦意を喪失させることだった。重慶周辺地域も含めた累計の死者数は1万1000人とされ、2万3000人以上との研究もある。

 重慶市民は困窮し、精神的にも衰弱を深めたが、日本軍は目的を果たせたとは言い難い。中国が屈服することはなく、日本は国際社会で孤立を深めた。現在に至る反日感情の根源となった側面もまた、見過ごすわけにはいかない。

■鹿屋からの出撃は3カ月で30回超

 鹿屋市寿8丁目の小手川清隆さん(72)は、海軍鹿屋航空隊(鹿屋空)が重慶爆撃で担った役割を調べている。漢口に進出した鹿屋空の1940(昭和15)年5月19日~8月29日の出撃は30回以上に及び、重慶や周辺都市を爆撃したことを、アジア歴史資料センターがウェブ上で公開している資料から明らかにした。

 小手川さんは昨年まで約10年間、同市平和学習ガイドを務め、特攻や日本の空襲被害の知識を深めた。その中で日本軍の「加害」に目を向ける必要性を感じ、昨年から鹿屋空の戦闘詳報を調べ始めた。

 長期間にわたる重慶爆撃のうち、特に活発だった期間に絞って分析した。1回の出撃に96式陸攻8~18機が参加。60キロ爆弾、250キロ爆弾を主に投下し、威力の大きい800キロ爆弾も計75回用いたことを突き止めた。今春発行した大隅史談会の会誌「大隅」第68号で研究成果を掲載、今後も範囲を広げて調べるつもりだ。

 小手川さんが興味を抱いたきっかけの一つは、鹿児島大「鹿児島の近現代」教育研究センター研究員の江山(ジャンサン)さん(33)の存在だ。江さんの出身は重慶。現地では学校の郷土史の教科書に爆撃が掲載され、4000人以上の市民が命を落とした39年の「五・三(ウーサン)、五・四(ウースー)空襲」を知らない市民はいないという。

 江さんは日本での重慶爆撃の認知度の低さに戸惑うという。「体験者がいなくなる中、教育の中、社会の中でどう後世に伝えていくか、大事な時期だと思う」と語る。

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