鹿児島の戦争 年表

1936年4月1日

鹿屋海軍航空隊発足
11月14日に飛行場竣工式

子どもの頃に覚えた軍歌を歌う岩元和さん=鹿屋市野里町

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旧海軍航空隊の笠野原基地跡に残る川東掩体壕=鹿屋市川東町

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串良基地跡の地下壕電信司令室=鹿屋市串良町有里

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1937年3月

国防婦人会鹿児島支部設置

米空母の甲板で特攻隊員の遺品を拾ったウィルソン・バートレットさん

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米空母の甲板で拾われた財布に入っていた写真複写の一部(「モシターンきりしま」掲載紙面から)

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1937年7月
盧溝橋事件、日中戦争始まる

1937年8月

出水海軍飛行場着工

校庭に残る地下壕の出入り口=出水市の下水流小学校

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地下壕の内部。右側に横方向に掘り込まれた部分がある=出水市の下水流小学校

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1938年3月

満蒙開拓青少年義勇軍(16~19歳)第1次送り出し
第1次では県内から925人を送り、1944年までに約2300人に上った

「引き揚げ列車から見た子供たちの死体が忘れられない」と話す谷元太一さん

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青少年義勇軍として渡満を決意し、家族と記念撮影する少年(右から5人目)竹下拓友会拓友誌より

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1939年7月

全日本防空協会鹿児島県支部発足
1939年9月
ドイツ軍がポーランドに侵攻、第2次世界大戦の勃発

1940年6月24日

国民精神総動員県本部設置

1941年3月

県下一斉第1回防空訓練実施

1941年4月6日

県満州建国奉仕隊92人(うち女子1人)出発

戦争に翻弄(ほんろう)された半生を語る濱田トメ子さん

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濱田さんが勤めた満州国総務庁の入った国務院(「図説 満州帝国 河出書房新社」から)

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1941年9月

県女子勤労報国隊(挺身隊)第1陣が北九州工場に出発

挺身隊員の動員証明書

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1941年12月8日
太平洋戦争始まる

1941年12月8日

大政翼賛会の県支部設立
大政翼賛会発足は1940年10月

1942年2月18日

大日本婦人会の県支部設立

1942年3月

知覧陸軍飛行場が完成

特攻仲間の写真や遺書の複写を前にする板津忠正さん=愛知県犬山市の自宅

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鳥浜トメさんと並んで写る板津忠正さん(左)=1945年6月ごろ

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「特攻の母」と慕われた鳥浜トメさん

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1942年6月5~7日
ミッドウェー海戦で日本海軍が大敗

1943年1月31日

鹿児島連隊区司令部女子職員竹やり訓練
この頃から戦中を通じて学校や婦人団体の常時訓練

遺言状を手に、人間愛にあふれた父だったと振り返る堀之内誠さん=鹿児島市明和5丁目

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「一家の柱となり家族を支えよ」と説いた堀之内與吉さんの遺言状と遺影=鹿児島市明和5丁目

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田中和夫さんが小学生の頃に掘った戦車壕跡=和泊町瀬名

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1943年2月1~7日
ガダルカナル島から日本軍撤退

1943年4月1日

鹿児島海軍航空隊、出水海軍航空隊発足

終戦直後、訓練仲間の寄せ書きを集めた筆記帳を大切に保管している奈良伍郎さん

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奈良伍郎さんが、三重海軍航空隊の野辺山派遣隊(長野県)で明け暮れたグライダーによる滑空訓練を描いたイラスト

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井ノ久保武義さんが搭乗していた零式水上偵察機(井ノ久保さん提供)

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1943年7月

串良と溝辺・十三塚原で海軍飛行場、頴娃・青戸と加世田・万世で陸軍飛行場が着工
いずれも1944年夏までにおおむね完工、青戸は未完のまま終戦

慰霊のために彫った観音像を抱く上野辰熊さん

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記憶をつづった手記を手に、特攻隊員当時の葛藤と苦悩を語る東郷勝次さん=都城市鷹尾3丁目

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1945年2月、中国の飛行場で三式戦闘機「飛燕」の前に立つ東郷勝次さん

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1943年8月

県男子学徒報国隊を北九州などに動員

1943年10月

鴨池動物園(現・平川動物公園)の動物処分
鹿児島軍司令部が防空対策のためライオンやクマ、ワニなどの毒殺・電流殺を指令。移転後の鴨池動物園跡付近はイオン鹿児島鴨池店になった

平川動物公園の動物慰霊碑

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1943年10月1日
学徒動員始まる
兵力不足を補うため、満20歳以上の文科系学生(理工・教員養成系除く)の徴兵延期措置を撤廃

1943年12月

徳之島浅間に海軍飛行場着工
1944年夏完工

特攻機の中継地「徳之島海軍飛行場」近くの多賀屋食堂に残された隊員の墨跡

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1944年1月

県内市街地で市民の隣組防空演習始まる

1944年1月14日

県女子学徒報国隊の第1陣が北九州工場に動員

勤労動員を前に照国神社で職場挺身を誓う鹿児島市の高女生(1944年3月19日付、鹿児島日報)

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1944年2月

県内の料理屋・カフェなどすべて休業

1944年2月1日

垂水海軍航空隊発足

垂水海軍航空隊で衛生兵を務めた山野秀則さん=鹿児島市紫原7丁目

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佐世保(長崎県)にいた当時21歳の山野秀則さん

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1944年2月6日

垂水丸が垂水桟橋近くで沈没、乗客ら500人以上が犠牲に

沈没後に引き上げられ「第一垂水丸」として改修された第六垂水丸(垂水史談会提供)

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当時の思い出を語る鶴川智治さん=日置市伊集院町猪鹿倉

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鶴川達哉さん(鶴川智治さん提供)

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1944年2月7日

県が市町村に各戸への防空壕築造促進を呼びかける

鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前

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国分海軍航空隊国分第一基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目

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伊仙町に残る防空壕の内部

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1944年4月1日

串良海軍航空隊発足

串良基地での戦争体験を振り返る丸目南兵衛さん=志布志市有明町野神

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串良航空基地からの特攻の主力機だった九七式艦上攻撃機(ウィキペディアより転載)

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1944年6月29日

陸軍徴用船「富山丸」が、徳之島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没
沖縄に向けて増援部隊を運ぶ途中で、乗り組んでいた将兵約4600人中約3700人が亡くなった
1944年7月7日
サイパン島が陥落
日本本土の大半が米爆撃機B29の攻撃圏内に

1944年7月15日

大島郡の一般人疎開始まる
1945年3月までに約2000人疎開

1944年8月15日

国分海軍航空隊発足

国分海軍航空隊第一国分基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目

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鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前

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1944年8月22日

学童疎開船「対馬丸」が、十島村悪石島近海で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没
沖縄から疎開予定の学童784人を含む1484人が亡くなった。奄美大島・宇検村の海岸には多くの遺体が漂着し、住民が埋葬にあたった

遺族らの「対馬丸記念会」理事長の高良政勝さん=那覇市若狭1丁目

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米潜水艦の魚雷を受け沈没した対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

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撃沈された対馬丸の生存者、平良啓子さん=沖縄県大宜味村喜如嘉

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1944年10月10日
沖縄「10・10」空襲

1944年10月10日

鹿児島県内で初の空襲
沖縄「10・10空襲」と共に奄美大島名瀬町、天城村浅間が空襲を受ける

1944年11月5日

沖永良部島知名が米潜水艦に砲撃される
1944年11月24日
米爆撃機B29が東京を初空襲

1945年1月22日

喜界島海軍飛行場中心に空襲

海軍航空基地があった喜界島に残る、縦8メートル、横10メートルのコンクリート製の戦闘指揮所跡。入り口は4カ所ある(喜界町)

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海軍航空基地跡の戦闘指揮所の内部。コンクリートにはサンゴも混ざっている

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1945年2月9日

鹿児島市内の中学生を愛知県半田市の軍需工場に動員

1945年2月10日

日本海軍が特攻を主体とする第5航空艦隊を編成。鹿屋に司令部を置く

あどけない笑顔をのこして出撃する特攻隊(1945年4月20日付の鹿児島日報)

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1945年2月18日

沖永良部島で初空襲

1945年2月20日

枕崎水産学校開聞丸が沈没
哨戒船として出動中、徳之島東方で米軍の攻撃をうける

1945年3月1日

古仁屋で初空襲
1945年3月9日
東京大空襲
死者10万人以上
1945年3月17日
硫黄島が陥落
日本軍約2万1900人が死亡。うち、鹿児島の歩兵第145連隊など県関係者は約2200人に上るとされる

1945年3月18日

鹿児島県本土と種子島陸海軍飛行場を中心に初空襲

木原信雄さん

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海軍入隊で作られたのぼり。ほかにも小旗や千人針、手術で使う手袋などを大事に保管している。「夫」の字は間違えて表記されていた

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1945年3月24~30日

大島郡の市街地や集落などで空襲

1945年4月

第1次本土決戦部隊五個師団1個旅団が鹿児島県に進駐
5月に第2次、6月に第3次
1945年4月1日
米軍が沖縄本島上陸
1945年4月7日
戦艦大和を旗艦とする日本海軍第2艦隊が壊滅
沖縄戦に向かう途中、枕崎の西南西200キロの海域で米軍の攻撃を受け、3700人余りが亡くなった

1945年4月7日

種子島の学童が県本土へ疎開

南種子町島間の疎開体験者らが旧吉田町の吉田小校庭に建立した「学童疎開之碑」

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1945年4月8日

鹿児島市で空襲

1945年4月15日

屋久島で空襲

1945年4月16日

西之表に初の国民義勇隊が発足
6月初めまでに県内市町村9割で発足

1945年4月17日

国分・大野原飛行場や周辺集落、溝辺・十三塚原飛行場で初空襲

1945年4月21~26日

鹿児島市、西之表、加治木で空襲

1945年5月12日

鹿児島市で初の夜間空襲

空襲後の鹿児島市街地の様子について瀬戸口博さんは「ちんがらっだった」と語る

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1945年5月18日

屋久島で空襲

1945年6月8日

県内飛行場で空襲

1945年6月17日

鹿児島市で大空襲、川内市でも初の空襲

出征前の男子寮学生からもらった“ラブレター”を手にする松元ヨウ子さん。当時の心境を込めて作詞作曲した歌の譜面と歌詞がつづられている

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体験をできるだけ多くの人に伝えたいと話す別府典子さん

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1945年6月24日付の鹿児島日報。同17日の鹿児島大空襲について、当時の柘植文雄県知事のラジオ放送要旨などが掲載されている

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1945年7月9日

串木野市街地で空襲

1945年7月27日

鹿児島市で空襲

1945年7月29日

枕崎市街地、加世田津貫、東郷町駅前などで空襲

1945年7月30日

川内、湯元の両市街地や久見崎、高江などで空襲

柱を貫通した機関銃の弾痕を指さす三木正英住職

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1945年7月31日

鹿児島市で空襲

父親の遺品の鉄かぶとを見つめながら、当時の思い出を語る久保田剛さん=鹿児島市皷川町

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防空監視隊本部での体験を語る島名富久子さん

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城山登山道脇に建つ掘っ立て小屋と防空壕(1960年7月22日付南日本新聞夕刊に掲載)

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1945年8月
ソ連が対日参戦

1945年8月5日

新城、垂水、重富、帖佐などで空襲
1945年8月6日
広島に原爆投下

1945年8月7日

坊津、笠沙野間池などで空襲
1945年8月9日
長崎に原爆投下

1945年8月9日

串木野市街地、市来湊町で空襲

1945年8月11日

山川、加治木、串木野、阿久根の各市街地、開聞村川尻で空襲
1945年8月15日
終戦

1945年9月4日

米海兵隊が高須海岸に上陸、鹿屋に進駐

進駐軍広報担当のオズボン大尉とジープでくつろぐ当時の永田鹿屋市長(1945年10月4日付、鹿児島日報)

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1945年10月15日

鹿児島港を引き揚げ港に指定(復旧までの間は加治木港で受け入れ)
満州や台湾など外地からの引き揚げ者を乗せた船を受け入れた
1946年12月8日
シベリアから初の帰還船
復員兵らを乗せた帰還第1船が京都・舞鶴港に入港した。第2次世界大戦後、ソ連は日本軍捕虜らを労働力としてシベリアなどに移送隔離し、厳しい環境下で苛烈な労働を課した。引き揚げは中断も挟み56年まで続いた

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