国道225号の郡元町交差点付近に立っていた「製綿紡績所址」の石碑。大きく三つに割れている=鹿児島市のふるさと考古歴史館
「鹿児島市の県庁近くの郡元町交差点にあった古い石碑を見なくなった」-。碑文には、国内の紡績工場の起源となった紡績所が地元に建てられた歴史が記されていたという。その行方を気にかける声が南日本新聞に寄せられた。どこに行ったのか。石碑の行方を追った。
「製綿紡績所址(あと)」の石碑があったのは、真砂町の国道225号の郡元町交差点。高さは台座を含めて約1.6メートル、幅約30センチ。歩道にぽつんと立っていた。
背面には「日本における紡績工場の始まり」と記す。幕末の薩摩藩主・島津斉彬が集成館事業と呼ばれる近代化政策を進めていた安政年間(1854~60年)の初め、手繰り式と足踏み式の機械で綿を紡いだと伝える。碑は1934(昭和9)年に建てられたとみられる。
国土交通省鹿児島国道事務所などによると、石碑はトラブルに見舞われていた。2024年5月31日、近くの駐車場を使った車が接触し、上部が折れてしまった。所有者や設置経緯が分からず、歩道上にあるのは危険として、同事務所は「撤去が望ましい」と判断。最終的には、壊れた石碑を市教育委員会が受け入れることが決まった。同年8月から下福元町のふるさと考古歴史館で保管している。
市教委文化財課は、石碑を修復した上で現地保存するか、博物館などで展示する道を探ったが、安全面の理由で実現しなかった。7月に登録10周年を迎えた世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」につながる記念碑としての価値を認め、「貴重な文化財。現地保存が望ましいが、難しいようだった」と説明。現段階で展示予定はないという。
現在の真砂本町一帯には1917(大正6)年、民営「鹿児島紡織」が建設された。斉彬の工場跡とされ、石碑も工場内にあったとの記録が残る。その後どのような経緯で国道沿いに移ったのか分かっていない。
工場は後に大日本紡績(現ユニチカ)の鹿児島工場として、世界有数の綿織物輸出国だった日本の紡績業を支えた。太平洋戦争が開戦した41(昭和16)年12月8日に閉鎖が決まり、海軍航空基地になった。
当時の鹿児島紡織社長が曽祖父(そうそふ)に当たる藤安秀一さん(71)=藤安醸造会長=は「碑がなくなったのは寂しいが、綿製品の輸出が国を支えた時代に、郡元に大きな紡績工場があった歴史が地元に伝わってほしい」と話した。