「幕末新聞」は1867(慶応3)年の1年間を、当時の国内外の史料をもとに“新聞スタイル”で再構成。もし今の新聞があったらどう報道したか?薩摩藩を中心として激動の日々に焦点を当てます(構成上の「特派」や「談」はフィクションです)。「幕末新聞」は南日本新聞で2017年1~12月、月1回連載しました。
※メインの記事1本を掲載します。

[幕末新聞第1号]第2回パリ万博開幕 薩摩藩が独自出展

2017年1月3日南日本新聞掲載
1867年のパリ万博の会場図。ウジェーヌ・シセリが描いたリトグラフ(薩摩英国館提供、個人蔵)
1867年のパリ万博の会場図。ウジェーヌ・シセリが描いたリトグラフ(薩摩英国館提供、個人蔵)
 【慶応3(1867)年巴里(パリ)特派】世界各国の産業や文化を紹介する「万国博覧会」が2月27日(現地暦4月1日)、仏蘭西(フランス)は花の都・パリで始まった。正式に参加要請を受けた日本からは幕府と肥前藩(佐賀)、さらに薩摩藩が出展。特に、幕府と対抗し、「薩摩琉球国太守政府」名で単独の展示区画を設けた薩摩藩に注目が集まっている。

 パリ万博は1855年に続いて2回目。仏国ナポレオン3世が、自国の産業力誇示を目的に、広く世界に参加を呼び掛けて開催した。親仏に傾く徳川幕府も要請にこたえ、慶応元(1865)年に出展を決めた。諸藩の参加を募った幕府に、肥前が参画した形だ。

 一方、すでに英国に留学生を派遣するなどしてきた薩摩藩は、欧羅巴(ヨーロッパ)諸国との新たな外交関係を模索していた。幕府の万博参加とは「独立」した展示区画を得ようと、仏国貴族モンブランに現地折衝をゆだね、これに成功。家老の岩下方平(みちひら)を全権とする使節団を、開幕の2カ月前にはパリ入りさせていた。

 驚いたのは何も知らず、開幕直後にパリに到着した徳川民部(昭武、将軍慶喜の弟)を代表とする幕府使節団だった。展示会場には、琉球国王名で「丸に十の字」の旗を掲げる一画がすでに設けられていた。早速、幕府側は薩摩側に猛抗議したが、交渉に応じた岩下らは一歩も引かなかった。

 最終的に主催者側レセップス(ナポレオン3世の親戚にあたる)が間に入り、幕府は「大君(将軍)政府」、薩摩は「薩摩太守政府」の名義で日の丸を掲げ、別区画で出品することで“落着”を見た。

 また、薩摩藩は仏国人の勲章好きを利用し、「薩摩琉球国勲章」を作ってナポレオン3世はじめ要人に贈ったり、現地新聞に「幕府と諸藩は対等の立場」とするような論説も掲載させたりした。モンブランらの助けを借りた一連の演出は、欧州社会での薩摩外交の勝利を印象付けた。

■[虫眼鏡]第2回パリ万博
 セーヌ川河畔のシャン・ド・マルス(現在エッフェル塔のたつ敷地)で1867年春開幕。楕円(だえん)形の鉄骨造りの宮殿(長径530メートル・短径400メートル)がメイン会場となり、周辺に各種パビリオンが造られた。最新の電信機やエレベーター、巨大な鉄製大砲などが多数展示され、当時の技術の粋が集められた。水族館をはじめ、各国の喫茶店など憩いのエリアも設けられ、その後の万博のモデルにも。開催期間は7カ月におよび、約680万人が会場を訪れ、盛況を博した。

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