居ながらにして、欲しい知識を手早く得られる。多様な意見に触れることができる。自ら世界に向けて情報発信することも簡単だ。
インターネットが一般社会に普及し始めたのは1990年代だ。その可能性に驚き、産業革命に相当する歴史の転換点を予感した人も多かったろう。
以来、通信網やデジタル端末の進歩は目覚ましかった。パソコンでしかできなかった作業が、今や手のひらのスマートフォンでたやすくこなせる。
老若男女を問わず浸透したのが、交流サイト(SNS)やブログ、口コミサイトなど双方向のやりとりができるソーシャルメディアだ。不特定多数に開かれた空間は、世界の隅々までのみ込もうとしている。
ただ、さまざまな問題点も表面化した。フェイクニュースのまん延、情報の偏り、誹謗(ひぼう)中傷の横行である。SNSで増幅された怒りや憎しみが、具体的な行動に結びついた出来事は後を絶たない。世界中で世論を操り、政治まで動かす。狙いを定めて特定の人を傷つける暴力性も持ちうるし、意図せずに他人を追い込むこともある。
パソコンの基本システムであるウィンドウズ95の日本語版発売から、今年で30年を迎える。後戻りできぬ「人類総メディア時代」をどう成熟させていくか。健全な言論空間の構築を諦めるわけにはいかない。
■中傷や差別の横行
昨年12月、北九州市で中学3年生2人が男に殺傷される事件があった。発生直後からSNSには犯人を外国人と疑う投稿が相次いだ。差別や偏見を助長する無責任な臆測である。
さらに、亡くなった女子生徒の父親が現役の福岡県警幹部で、反社会的勢力に狙われたとの情報も拡散された。県警が防犯カメラ映像などを公開しなかった理由についても、「犯人が『上級国民』だから」との言説が拡散された。既得権益層を守るために事実を隠しているとして、報道機関に批判の矛先を向ける書き込みも多かった。
殺人未遂容疑で逮捕されたのは近くの日本人の男だったし、反社勢力とのつながりはなかった。女子生徒と幹部はたまたま名字が同じだっただけだ。カメラ映像の公開は捜査の進展状況で判断され、全ての事件で公開されているわけではない。
事実無根の情報で被害者や家族を含む関係者を傷つける。警察や報道機関を中傷する。衝撃的な事件や事故のたびに、同様の現象がみられる。結果に十分な思いを致すことなく、あるいは確信犯的にデマを書き込み、拡散する人が絶えないのは、アクセス数が増えれば広告収入が得られるというSNSの仕組みと無関係ではあるまい。
昨年11月の兵庫県知事選では、SNSが結果を左右したと言われる。県議会の不信任決議を受けて失職に至った斎藤元彦氏は主にSNSで有権者の支持を広げ、再選を果たした。
知事の適格性を問われた経緯よりも、「改革に手を付けようとして、既得権益層にいじめられている」という構図は分かりやすかった。裏付ける情報にはフェイクが多数含まれたが、「隠されていた真実が分かった」と受け止める人は多かった。
広告収入目当て以外にも、真偽性のあいまいな情報を拡散する人が一定数いるのは確かだ。
■まず特性の理解を
ソーシャルメディア上のいじめに耐えかねた若者が自ら命を絶つ重大な事件は、国内外で起きている。オーストラリアでは昨年、16歳未満のSNS利用を禁じる法律が成立した。
子どもの保護はもちろん、社会を混乱させるフェイク情報の発信や拡散、誹謗中傷に歯止めをかける実効性の高い法規制の検討は、国内でも必須だろう。
ただ、「若者など情報の真偽を見極める力のない人々の群集心理をあおりやすい」「社会の分断を生む」といった批判的、悲観的な決めつけは避けた方がよさそうだ。
兵庫県知事選でSNSを信じ込んだのは中高年層が多かった。社会の分断はもともと存在し、SNSで顕在化しただけではないのか。こうした指摘もあることを念頭に、まずソーシャルメディアの特性を理解したい。
ネットでは言いたいことがある人だけが発信し、賛同や反論を書き込む人も、確固たる主張のある人にほぼ限られる。結果として、攻撃的で極端な意見が両極化しやすく、互いに罵倒や中傷を繰り返す殺伐とした風景が広がっていく。
それでも、多様な人の相互理解を目指し、無知による誤解を解消する穏健な公共空間にもなり得るはずだ。大きな可能性を秘めた身近なこのツールを使いこなす知恵と理性を、社会が獲得しなければならない。