社説

[「大和」水上特攻]物語化も風化もさせず

2025年4月8日 付

 1945年の春、沖縄周辺の海域には米艦船がひしめいていた。4月1日に沖縄本島に上陸した米軍部隊を支援するため、激しい艦砲射撃や艦載機の空襲を繰り返した。
 応戦する日本軍が戦術の柱に据えたのが「特攻」だった。航空機に爆弾を積み、乗員もろとも敵艦に体当たりする。鹿児島県内の鹿屋や知覧など陸海軍の飛行場からは連日、自爆攻撃の任務を帯びた隊員が十死零生の出撃に身を投じた。
 特攻したのは航空部隊だけではない。連合艦隊も残存の艦船を水上特攻に出すことになった。行き着いたのが4月7日、戦艦「大和」が薩摩半島西の東シナ海で米艦載機に撃沈された坊ノ岬沖海戦だ。
 世界最大最強を誇った日本海軍の象徴が遂げた悲劇的な最期は小説や映画の格好の題材になり、秀作も多い。今後もさまざまな形で描かれ続けるだろう。
 任務に殉じた先人を悼み、尊崇の念を抱くのは自然な感情だ。同時に、一貫した方針も綿密な計画性もなく将兵を死なせた当事者の責任や、軍部の意思決定過程に関心を寄せる人がいるのも当然である。
 80年前、県民にとって身近な海域で、歴史に残る海戦があった。アジア・太平洋戦争の一場面として、風化させてはなるまい。ただ、物語はあくまでも物語だ。創作のみに触れ、史実を理解した気になる危うさには留意したい。

■戦死者は4000人超

 日本陸海軍は、航空機を使った特攻で約4000人の戦死者を出した。大和と僚艦は、たった1回の出撃でこれに匹敵する犠牲者を出した。
 大和は4月6日午後、山口県徳山沖を出港した。巡洋艦や駆逐艦9隻を率いて九州の東を南下し、鹿児島県の大隅半島と種子島に挟まれた大隅海峡を経て枕崎沖を西に進んだ。動きは米軍に筒抜けで、7日正午過ぎに米艦載機の攻撃が始まった。2時間余り続いた波状攻撃の末、大和を含む6隻が宇治群島西方の海域に沈んだ。
 艦隊が沖縄を目指したのは、浅瀬に乗り上げ、海岸砲台として砲弾が尽きるまで米軍を攻撃するためだ。味方航空機の護衛もなく、敵に制圧された海域に艦隊を突入させる構想に勝算などあったはずがない。
 なぜそんな無謀な作戦が実行されたのか。立案や決定の詳細を記録した資料はないが、戦後の証言や書物、研究から推し量ることはできる。
 作戦は一人の連合艦隊参謀抜きでは語れない。
 「沖縄のあの浅瀬に大和がノシ上げて、一八吋(インチ)砲を一発でも射ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の士気は落ちる」(「ドキュメント戦艦大和」吉田満・原勝洋)。そんな主張を繰り広げたのが、鹿児島県出身の神重徳参謀だ。42年8月の第1次ソロモン海戦で名を挙げ、「戦術の神様」とまでいわれたエリート軍人だった。
 ただ、参謀一人が主張したからといって、巨額を投じて建造し、3300人超の命を乗せた巨艦を死地に追いやるような案が採用されるとも思えない。実行に移されたのは、天皇に航空特攻を上奏した軍令部総長が、天皇から「水上部隊はどうしているのか」と問われ、艦船の特攻を促されたと受け取ったからとの分析もある。

■先行した軍の論理

 航空特攻の最前線、第五航空艦隊を率いて鹿屋市の鹿屋航空基地にいた宇垣纏(まとめ)司令長官は、水上特攻への憤りを日記「戦藻録」に記している。「全軍の士気を昂揚(こうよう)せんとして反(かえ)って悲惨なる結果を招き、痛憤復讐(ふくしゅう)の念を抱かしむるほか何ら得るところなき無謀の挙と言わずして何ぞや」
 一方で意義を見いだす声も多い。「大和を使い惜しみして敗戦後、米国に接収されるのは忍びなかった」「連合艦隊にふさわしい壮絶な散り際を求めた」といった解釈を語った軍人らもいる。
 大和に乗艦して水上特攻を率いた伊藤整一司令長官は当初、命令に疑問を呈したものの、「1億総特攻の先駆け」という意義づけに覚悟を決めたと伝わる。武士道に通じる滅びの美学に、人を引きつける一種の魅力があるのは確かだ。
 だが今、直視すべきは、軍の論理が先行した国家の姿ではないだろうか。大義のために命への執着さえ断ち切る美徳の前に、理性や合理的な思考は影を潜める。名誉が重んじられ、人道や人権は軽んじられる。
 敗戦は決定的なのに国はその事実を隠し、沖縄で住民を巻き込んだ持久戦を展開し、特攻で若い将兵の命を浪費し続けた。戦時国家にとって一人一人の命がどんな存在か、大和の水上特攻が如実に伝えている。

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