80年前の沖縄戦を指揮した旧日本軍の牛島満司令官の「辞世の句」について、中谷元・防衛相が「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない。平和への願いだ」との解釈を語った。
句は「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ」。万世一系の天皇を中心とした神の国によみがえることを信じて、従容として命を投げ出す。皇国史観に強く裏打ちされた辞世とされる。
牛島司令官の使命感や軍人としての死生観を推し量る資料としての価値を説くなら分かる。だが、「平和への願い」に収斂(しゅうれん)させて語るのは軽率だし、強引すぎる。
辞世の句は那覇市を拠点とする陸上自衛隊第15旅団が2018年からホームページ(HP)に載せ、昨年10月に掲載を取りやめた。「自衛隊と旧日本軍は一体だと想起させるもので不適切」との批判が広がったからだ。ところが今年1月、沖縄の本土復帰に伴って赴任した陸自部隊の群長の訓示を紹介する中で再登場させていた。
中谷氏は先週の衆院安全保障委員会で句のHP掲載についての見解を問われ「問題ない」と述べ、「平和を願う句」との解釈を語った。今週の記者会見でも同様の発言を繰り返した。
米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸し、鹿児島市出身の牛島司令官率いる第32軍と激戦を繰り広げた。地上戦で沖縄県民の4人に1人が死亡、日米双方の戦没者は計20万人超に上った。
第32軍は兵士たちの捨て身の攻撃で米軍を消耗させたものの、じりじりと本島南部に後退した。糸満市摩文仁に追い詰められた牛島司令官らは、大本営に辞世の句を添えた決別文を打電し、6月23日に自決したと伝わる。
牛島司令官は決別電文と前後して、残った将兵に「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の命令を出した。「組織的戦闘は終わっても、それぞれ命尽きるまで戦い続けて、連綿と続く皇国の歴史の中で生き続けよ」といった意味だ。米軍への投降は禁じられ、「軍官民共生共死」の理念が浸透した社会で、全島民に「死ぬまで戦え」と言ったも同然である。
この命令と考え合わせれば、辞世の句の本質が「平和の願い」とかけ離れているのは明らかだ。
平和憲法下の自衛隊と旧日本軍は根本的に異なる。自衛隊が職務を果たすには、国民の支持が欠かせない。沖縄に駐屯するなら、まずは沖縄県民の感情に沿う存在を目指すべきだし、これまでその努力を積んできたはずだ。
住民犠牲を思い出させる「辞世の句」のHP掲載を、無理筋の解釈を繰り広げてまで容認する中谷氏の態度は理解し難い。認識を改め、旅団に掲載の見直しを指示する必要がある。