50年前のきょう、ベトナム戦争が終わった。犠牲者はベトナム側約300万人、米兵約5万8000人とされる。米軍が散布した枯れ葉剤による健康被害は孫やひ孫の世代にも及び、不発弾や地雷による事故が今も続く。
現在のベトナムはASEAN諸国でトップクラスの経済成長率を誇り、鹿児島との交流も盛んだ。国別で最も多い5000人以上が県内で働いている。
隣人たちの母国で何が起きたのか。改めて振り返るとともに、戦争の理不尽さを現地から報じ、反戦の動きをつくったジャーナリストたちの存在も記憶にとどめたい。
旧宗主国フランスからの独立時に分断された南北ベトナムが、それぞれ統一を目指した戦いだった。南が資本主義、北が共産主義の陣営に属し、東西冷戦に巻き込まれた。
1960年に北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線が創設され、武装闘争を開始。南ベトナムを支持する米国は64年の「トンキン湾事件」をきっかけに翌年から本格介入した。
解放戦線は密林を拠点にゲリラ戦で徹底抗戦。北ベトナムは旧ソ連や中国から援助を受け、前線に武器と兵士を送り続けた。戦いは泥沼化していく。
米国内で反戦の声が高まり、ジョンソン大統領は再選出馬を断念。ベトナム撤退を公約に掲げ当選したニクソン大統領が73年、米軍を引き揚げた。
米国にとって初めての敗戦とされる。アジアの小国が超大国の支配を脱した「民族解放の戦い」でもあった。
忘れてならないのは報道が反戦運動につながったことだ。米軍が取材に協力的だったこともあり、最前線の生々しい実態を市民が知ることになった。
泣きながら走る裸の少女らの姿をとらえた写真「ナパーム弾の少女」は世界に衝撃を与えた。必死の形相で川を渡る母子を撮った故沢田教一さんの「安全への逃避」も反響を呼んだ。
調査報道で米軍に都合の悪い事実も明るみに出た。無抵抗の村民504人を米軍が殺害した「ソンミ村の虐殺」が表面化。国防総省の秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」のスクープは、米艦が理由もなく攻撃されたとして、米軍本格介入の口実となったトンキン湾事件がでっち上げだったと暴露した。「戦争の最初の犠牲者は事実」といわれるが、事実を掘り起こすことは平和につながる。
自由な戦場取材を許した“教訓”からか、米軍はその後の戦争では記者を部隊に同行させて便宜を図る代わりに、軍の目の届かない取材はさせず、情報統制するようになった。
今も世界各地で戦争や紛争が続き、偽情報が飛び交っている。現場に迫り、権力を監視する「オールドメディア」の気概を、過去のものにしてはいけない。