鹿屋市にあった旧日本海軍の航空基地を出撃した特別攻撃(特攻)機が、喜界島沖の米戦艦ミズーリに体当たりを遂げたのは1945年4月11日だった。
それから80年たった先月の同じ日、米ハワイの真珠湾に保存されている同艦で突入隊員の追悼式典があった。南九州市の知覧特攻平和会館が2020年から戦艦ミズーリ記念館と提携している縁で、同市の塗木弘幸市長も出席した。市長は「特攻のような非人道的な出来事が二度と起こらないよう、世界に呼びかけていきたい」と表明した。
米艦上で特攻隊員の追悼式が開かれるのは、現在の日米両国民の間で、戦死者を悼む気持ちが一定程度共有できる証しだろう。特攻隊員の遺体を水葬に付して敬意を示した米艦乗員の対応も、戦場の美談と受け入れられやすいエピソードだ。
太平洋戦争末期、鹿児島県内から2200人超の特攻隊員が出撃して帰らなかった。航空特攻の戦没者約4000人の半数を超える人数だ。80年前のまさに今の時季、祖国、家族、そして自らの未来とも決別して、鹿児島から南の空を目指した。
県内には知覧の他にも特攻関連の資料展示施設が複数ある。二度と起こらないように願うと同時に、記憶を次世代につなぐ厳粛な責任を自覚したい。
■3月から連日出撃
日米開戦の端緒となった1941年12月8日の真珠湾攻撃こそ日本軍は戦果を挙げたものの、42年6月のミッドウェー海戦で多数の主力艦を失った。44年7月までにマリアナ諸島が陥落し、日本のほぼ全域が大型爆撃機B29の攻撃圏内に入った。
戦況挽回が絶望的なのは明らかだった。そんな状況で日本軍が傾倒したのが、爆弾を抱いた飛行機で乗員もろとも敵艦に突入する特攻である。
44年10月25日、海軍はフィリピンで神風特別攻撃隊敷島隊を出撃させた。ルソン島マバラカットを飛び立った敷島隊はレイテ沖の米機動部隊に体当たり攻撃し、米空母を撃沈した。競うように陸軍も特攻隊を編成、出撃命令を出した。
米艦船が沖縄周辺に集結した45年春からは、九州南部が特攻出撃の現場となった。鹿児島県内だけで10カ所以上の飛行場が造られ、出撃は3月11日から8月13日まで続いた。
米軍側は迎撃機を手厚く配置したほか、優れたレーダー監視網や最新の対空砲弾を投入して対策を固めた。特攻機は敵艦に近づくことさえ難しくなったが、出撃命令は出し続けられた。
生還を見込めない命令に、兵士はなぜ従ったのか。当時の経緯をたどるとき、当然湧く疑問といえよう。
「無駄死に」と思わなかったのだろうか。報国の尊さを信じる曇りのない信念に満ちていたのだろうか。命を惜しむことは不名誉と信じ、潔さに最上の価値を見いだしたのだろうか。
平和の世に身を置き、十死零生の出撃に身を投じた若者たちの心を理解するのは簡単なことではない。知るほどに、考えるほどに、特攻兵士の心の内を決めつけ、分かった気になる危うさを思うのではないか。10人いれば10種類の決意や折り合いの付け方があったろう。
■多面的な学びから
南さつま市の万世特攻慰霊碑奉賛会が2023年に発刊した「万世特攻平和祈念館ものがたり-よろずよに」に、興味深いエピソードが紹介されている。祈念館を訪れた米国男性からスタッフが質問を受けたという。
「隊員は搭乗前に高揚作用のある薬物を注射されていた、操縦かんに鎖でつながれていた、風防は溶接されて脱出できないようになっていた。学校でこう教わったが、本当か」
こうした言説が伝わるのは、特攻が常人の理解を超えているからだろう。はるかな過去、遠い場所の極めて特殊な出来事と切り離す人が増えれば、この先鹿児島でも、同様のデマが広がりかねない。
知覧や万世、鹿屋の展示施設で隊員の遺書や遺品を目にして、哀悼の思いを抱かない人はいまい。隊員のほとんどが17~23歳という、今の高校生や大学生の年代だったことを知り、その至純の心に涙する人もいるはずだ。この感動や英霊への尊崇の念は否定も軽視もできない。
だが、「死ななくてもよかったはずの死」という捉え方にも思いを致したい。戦時国家が陥っていた人命軽視や精神主義という病理を直視する視点を忘れてはなるまい。
倫理観や人道を踏み外した命令や組織運用は、特攻以外にもいくらでもあった。現代社会が当時と同じような空気に支配されない保証はどこにもない。多面的に学び、感じ、考えを深める。この積み重ねこそが、平和を希求する足場を固める。