社説

[長嶋茂雄さん死去]時代照らしたミスター

2025年6月4日 付

 長嶋茂雄さんがきのう89歳で亡くなった。巨人の選手、監督としてプロ野球を国民的娯楽に押し上げた希代のスーパースターだった。
 戦後日本の復興、発展とともに歩んだ。燃える男、栄光の背番号3、ミスタープロ野球。代名詞は数知れない。
 明るいキャラクターはスポーツの枠や世代を超えて愛され、時代を照らし続けた。喪失感は大きい。
 1950年代半ばに東京六大学リーグの立教大で活躍。注目のプロデビュー戦では4打席4三振と派手にやられたが、1年目から本塁打と打点のタイトルを獲得し新人王に。翌59年、初の天覧試合ではサヨナラ本塁打を放つ。テレビが一般家庭に普及しつつある時代に、茶の間を熱狂させた。
 王貞治選手との「ON砲」で巨人の黄金時代を築き、日本シリーズ9連覇に貢献。豪快な空振りも絵になった。野球少年はだれもが「背番号3」をつけたがり、そのフォームやしぐさをまねたという。
 「観客に感動を抱かせる。それがプロたる者の使命」と自伝に記す通り、ファン第一を信念とした。フルスイング、全力疾走は当たり前。三塁ゴロを「トントントーンと捕って、パーンと放った」派手なランニングスローは、歌舞伎の動きも参考にしたと明かす。
 オープン戦を含めほとんどの試合に出たのは「ファンが待っているから」。敬遠されると「お客さんがお金を払って見に来てくださっているのに失礼だ」。抗議の意味を込め、バットを持たずに打席に立つこともあった。
 プロ1年目は、左中間スタンドに運びながら一塁ベースを踏み忘れた「幻の本塁打」のエピソードをつくる。そのせいで打率3割、30本塁打、30盗塁のトリプルスリーを逃した。「一塁をちゃんと踏んでいれば、新人で昭和33年に背番号3の三塁手が…と実に美しい三並びの記録が残ったはずだった」と残念がった。
 幼稚園児だった長男一茂さんを後楽園球場に連れて行ったまま試合後1人で帰宅するなど「うっかりチョーさん」と呼ばれた天然ぶりも魅力だった。
 17年間で首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度、セ・リーグ最優秀選手5度。数々のタイトルを獲得したが、868本塁打の王選手と比較すると「記録より記憶に残る選手」だった。
 監督としては巨人を通算15シーズン率いて2度の日本一に導き、名采配、迷采配でファンを楽しませた。2000年には王監督率いるダイエー(当時)との日本シリーズ「ON対決」も実現させた。
 野球の日本代表監督としてアテネ五輪を控えた04年に脳梗塞で倒れた。懸命にリハビリに励み、右半身まひを抱えながら表舞台に復帰、多くの人に勇気を与えた。最後までスターだった。

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