鹿児島市街地を火の海に包み、2316人が犠牲になった鹿児島大空襲から80年を迎える。焼夷(しょうい)弾約810トンが住宅密集地にばらまかれ、子どもや女性ら非戦闘員が巻き込まれた。
非人道的な「無差別爆撃」は今なおウクライナやパレスチナ自治区ガザなどで続く。
身近に起きた惨禍の記憶を風化させてはいけない。歴史に学び、二度と繰り返さない誓いを新たにしたい。
■精密から無差別へ
太平洋戦争時の米軍の空襲は1944(昭和19)年秋以降に本格化する。当初は軍事施設だけを狙った「精密爆撃」が中心だった。
鹿児島市を最初に襲った45年3月18日の空襲は精密爆撃だった。6人の死者、59人の負傷者が出たものの、被害は郡元町(当時)の海軍航空隊関係に限定されていた。
南日本新聞の前身、鹿児島日報は翌日の1面コラムで、怖いもの、珍しいもの見たさに空襲を見物した人が少なくなかったと指摘。「ボッケ過ぎることで機銃掃射や味方の高射砲弾破片にあたり犬死にをしたり怪我(けが)でもしたら全く申し訳ないことで固く慎まねばなるまい」と注意を呼びかけたほどだった。
だが米軍は45年3月の東京大空襲以降、夜間に低高度から住宅密集地に焼夷弾をばらまく「無差別爆撃」へと移っていく。投下する武器も爆弾から焼夷弾に変わる。精密爆撃は精度が低かったからとの見方もある。
焼夷弾は、燃焼力が高く消火しにくい工夫が施されていた。実物大の日本家屋を再現して効果を検証する実験を繰り返したとされる。市民を巻き込むことをいとわない戦い方である。
鹿児島大空襲は梅雨の晴れ間となった45年6月17日の深夜に始まった。午後11時過ぎ、市民は大きな雨音のような「ザーッ」という音を聞く。グアムから来た117機の米爆撃機B29が投下した無数の焼夷弾の音だ。
約1時間40分に及ぶ空襲で、あちこちから火の手が上がる。易居町にあった鹿児島日報の社屋も炎上した。「荒田方面に火の手が上がって、やがて攻撃は上町方面へのびて山形屋、西本願寺別院が火に包まれるのとほとんど同じころ、日報の建物も焼夷弾の雨に見舞われアッという間もなかった」。社史はその破壊力を書き残している。
■被災補償いまだに
鹿児島は沖縄戦以降、米軍の次の上陸作戦に位置づけられた。特攻基地が多い上、九州全域への空襲のための通過地点でもあった。敵の機影を見ない日はほとんどなかったという。
「鹿児島県史」は空襲による県全体の死者3746人、負傷者3146人、住家全焼5万7049棟、全壊2242棟、半壊2317棟と記す。被害のない町村はわずかだった。
最も悲惨だったのが鹿児島大空襲だ。大都市中心の焼夷弾空爆が地方都市に拡大する契機となった。日本中を徹底的にたたき戦意をくじく考えだったのだろう。
日本政府は旧軍人・軍属や遺族に恩給など総額約60兆円を支払ってきた。しかし、いまだに民間人の空襲被害は放置されたままだ。戦争という非常事態で生じた被害は国民が等しく我慢すべきだとの「受忍論」や、「戦後補償問題は解決済み」といった言い分もあるが、国が始めた戦争の責任は政府が取るのが筋ではないか。
救済法成立を目指す超党派の国会議員連盟は今月12日、今国会への法案提出見送りを決めた。法案は空襲や沖縄戦で身体や精神に障害が残った人への50万円支給が柱。被害実態調査も盛り込んでいる。自民党内がまとまらず、戦後80年となる8月までの成立を断念した。
「死ぬのを待たれているようだ」と語る空襲被災者たちの言葉は重い。