原爆があの戦争を終わらせた-。米国ではこんな意見が根強い。投下の決断を正当化できる。今年6月の米軍によるイラン核施設攻撃を巡って、トランプ米大統領は戦争を終結させた点で広島、長崎への原爆投下と「本質的に同じ」と発言した。
「原爆終戦論」は日本の指導者にとっても都合が良かった。
戦争継続が不能に陥っていたことを表面に出さず収拾できる。むしろ幸いである-。1945年8月12日、そう口にしていたのは米内(よない)光政海軍大臣だ。「原子爆弾の投下とソ連の(対日)参戦は、ある意味では天佑(てんゆう)」。天の助けだ、と。
国家が始めた無謀な戦争の結末として、未曽有の被害に巻き込まれた民への責任が置き去りになるのは見えていた。
被爆者は自ら声を上げなければならなかった。
56年8月、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を結成。「国家に求むべきは求め」ていこうと運動を始める。医療特別手当の支給要件を定めた原爆症認定制度がつくられ、その支援対象拡大など少しずつ運動の成果を実らせていった。
だが被団協が核廃絶とともに訴える「原爆被害に対する国の補償」はいまだ拒まれたままだ。健康被害に対する医療や福祉の対策を講じる認定制度からも取りこぼされた人たちがいる。
長崎は戦後80年の「原爆の日」を迎えた。長崎原爆に遭いながら被爆者と認められない「被爆体験者」の訴訟が続く。残された時間は少ない。救済を求める声に政府は応えてほしい。
■被爆体験者の証言
原爆の日を前に、今月5日付の本紙は証言特集を組んだ。
証言者の一人、浜田武男さんは5歳の時、長崎原爆の爆心地から約8キロ地点にいた。辺りに灰が降り、灰をよけながら飲用の山水をくむ手伝いをしたという。これまで被爆者と同様の症状に苦しんだ。今なお体調不良に苦しむ。「原爆の影響がないとは言えないと思う」と語る。
しかしその場所は、国が被爆者認定制度をつくるとき、原爆投下当時の長崎市の行政区域を基に線引きした「援護地域」の外側にあった。そのため被爆者のくくりから外された。
代わりに、「被爆体験者」となる。爆心地から半径12キロ内にいた人、との条件には合致したからだ。
国は体験者に、精神疾患とその合併症に限って医療費を支給している。被爆者健康手帳が交付され、医療費の自己負担分が原則無料となる被爆者とは格差がある。浜田さんは被爆者認定を訴える裁判に加わった。
昨年の長崎地裁判決では、自身を含む15人が、放射性物質の混じる「黒い雨」が降った場所にいた被爆者と判断されたものの、残る原告29人は敗訴した。みなで喜べず、浜田さんも控訴に同意した。
原告は、全員が被爆者の手当支給対象となる疾病を発症した人たち。判決は体験者の中にも「格差」を持ち込んだ。いびつな線引き、いびつな形での支援をいつまで続けるのか。政治的解決を急ぐべきだ。
認定に当たっては、原爆による健康被害を受けた可能性を立証する責任を原告に負わせる、という前提に立つのも理不尽と言える。「疑わしきは救済を」の願いを司法に託した原告団は、援護拡大に及び腰の「行政に忖度(そんたく)した判決だ」と批判した。戦後処理の終わりが見えない。
■受忍にノーと言う
国が原爆被害への国家補償を拒む背景についても、取り上げておきたい。
国の被爆者対策の基本理念を確立しようと政府が設立した専門家会議は1980年、「およそ戦争という非常事態の下での被害は等しく国民が受忍すべきものだ」とする見解を示した。受忍すべきとは「我慢しろ」ということ。この「戦争被害受忍論」が、国の補償責任を否定する行政施策の根本にある。
被団協はすぐさま声明と見解を発表し、「原爆に対する批判」のかけらも「国の戦争責任についての反省」もみられない、と抗議した。
国の理屈を許せば、国民は未来にも受忍を強いられることになりかねない。原爆被害、戦争被害は決して受忍できない苦しみである。声を大きくして私たちは言わねばならない。