新聞1面の左上に数字が並んでいる。発行号数を表し、年齢に例えて「紙齢」と呼ばれる。
南日本新聞の紙齢がきょう3万号に達した。前身の「鹿児島日報(日報)」が創刊した1942(昭和17)年2月11日付を第1号とし、4年後に「南日本新聞」に改題しても、そのまま引き継いだ。
日報時代の45年6月、鹿児島市易居町にあった社屋は鹿児島大空襲で焼失した。終戦前後は草牟田の横穴壕(ごう)にある疎開工場で「片面印刷の号外まがいのもの」を発行。戸別配達ができないと、電柱に貼って歩いた。
紙齢をつないだ先人や、読者の支えがあってこその3万号である。深く感謝したい。
■不戦を誓い再出発
本紙の源流は1881(明治14)年の「鹿児島新聞」設立にさかのぼる。年末に創刊を予告する号外を発行し、翌82年2月に創刊した。西南戦争の薩軍生き残り組である記者たちが「筆が折れ、すずりが砕け、気力が絶え力が尽きるまで」荒廃した郷土での言論活動に取り組むと誓った。
ライバル紙「鹿児島朝日新聞」と合併して日報が生まれたのは太平洋戦争の開戦2カ月後。「1県1紙」が国策だった。
2面の「創刊のことば」は、「わが日本皇国は今支那事変をも含む大東亜戦争を遂行しつゝある。凡そ皇軍の向ふところ敵無く、戦へば必ず勝ち」で始まり、合併理由を「聖戦完遂の国家体制に即応し自ら新使命を負荷せんとする文章報国の赤誠に依ることは勿論…」と記した。
戦時下の言論統制を受けた。社史は鹿児島新聞や鹿児島朝日新聞が「昭和7、8年のあたりまでは、堂々の論陣を展開しているのである」と記録する。それ以降は大本営などの発表をそのまま伝え、県民を戦争へと駆り立てたとも読める。記者たちが勇を誇り、正義を装い、大声をあげ旗を振りかざした記事も多数見受けられる。
南日本新聞に改題する前日の日報1946年2月10日付の社告では「言論統制の鉄鎖」に縛られ、「言論機関の場合は国民思想の善導と世論指導を任とするだけに苦悩は大きかった」と創刊からの4年を振り返った。
読者が文言通りに受け取ったかは分からない。ただ、戦意高揚の一端を担ったことを反省し、二度と戦争を繰り返さないことを誓った。それが南日本新聞の出発点であったのは確かだ。
戦後80年の間、日本は戦争をしていない。しかし、「力の支配」を志向する権威主義が各地に広がっている。日本周辺の安全保障環境は緊張が高まり、新たな戦前の気配が漂う。
「戦後」を続ける。その重い責務を自覚し、決意を新たにする機会としたい。
■流言打ち消す報道
放送中のNHK連続テレビ小説「あんぱん」で、やなせたかし夫妻をモデルとする主人公が「逆転しない正義」を探し始めたように、80年前の終戦は価値観の大転換を生んだ。
当時の紙面からは、迷いながらも県民がほしい情報を届けようとする記者の気概が伝わる。
進駐軍が鹿屋に上陸したのは9月3日。進駐前は「米軍が隼人に着陸して加治木街道を鹿児島に向け進撃中」「婦女子は辱めを受ける」といった流言、デマが飛び交い、県民は不安動揺の渦に巻き込まれていた。
鹿屋進駐後の記事では、軍紀整然として友好的な米兵の様子を伝える。地元の子どもたちと触れ合う米兵の写真が頻繁に紙面を飾り、伝馬船が転覆し漂流した漁師を海兵隊員が救助といった美談も掲載した。
「表面の平静さだけをもって進駐軍のすべてを判断するような甘い考へは許されない」「徒らに卑屈になり泣寝入りしてしまふ必要はない。隙を見せぬことが大切だ」といった注意喚起もしている。
流言やデマは今、交流サイト(SNS)上の偽情報・誤情報へと形を変えている。拡散力や影響力はむしろ強まっているかもしれない。
80年前と同じように、県内を“定点観測”している記者たちが現場に足を運ぶ。多くの人から話を聞いて事実をつかみ、記事に仕立てる。編集、校閲など複数の目でチェックを重ねる。
そんな地道な作業を続け、信頼できる正確な情報をこれからも発信していきたい。