牛舎で過ごす「のえる」号。耳標にある母牛の名前は「きんめだる」だった=4月、霧島市横川
鹿児島県が日本一の栄冠を手にした5年に1度の「和牛のオリンピック」、全国和牛能力共進会(全共)開催から半年がたった。農家を取材する中で、一頭の子牛に記者と同じ名前が付いた。これも何かの縁。せっかくだから競りにも参加してみた。(石本のえる)
まぐろ、やくしま、ぼると-。事務所の壁にあるホワイトボードには、牛の名前が書かれたマグネットがびっしりと貼られている。どの名前もユニークだ。
2022年7月、鹿児島県霧島市横川で和牛200頭を飼う玉牧場を訪ねた。地元開催の全共に向けて盛り上げ役を担っていた畜産女性グループ「姶LOVE和牛女子」代表の久留須美鈴さん(61)に会うためだ。
「まぐろは青森生まれの母牛から生まれたから。牛の数は多いけれど、牛舎を回るときは名前を呼ぶようにしているの」。ホワイトボードを眺めていると、久留須さんは名付けの経緯を一頭一頭、教えてくれた。どの牛のことも愛情を持って世話をしているのが伝わってくる。
和牛は通常、雄は漢字、雌はひらがなで名前が付けられる。それ以外はかなり自由だ。子牛の競りでは上場する牛の日齢や血統が記された名簿が配布される。個性的な名前の牛も多く、農家の遊び心を感じることができる。
「“のえる”って良い名前。次生まれてくる子に付けようかな」。渡した名刺を眺めながら、久留須さんがふと口にした。「楽しみです。生まれたらぜひ連絡をください」と応じ、その日は取材を終えた。
10日ほど後、スマートフォンにメッセージが届いた。久留須さんを紹介した記事の感想がつづられた文章は、こう締められていた。「あとで元気なノエルちゃん、写メします」
■“本人”と対面
生まれてから9カ月。体重300キロにすくすくと成長した「のえる」号は、4月11、12の両日、姶良中央家畜市場(霧島市)で開かれる競りに出品されることが決まった。久留須さんから送られてきた出品名簿の写真には「いしもとのえる」と記載されていた。フルネームだったのか、と驚いた。
子牛の競りは、県本土や熊毛、奄美の各地域で1、2カ月に1度のペースで開かれている。多くは月齢9カ月で、県内外から集まった肥育農家らに買われて第2の人生ならぬ「牛生」を歩むことになる。
「いらっしゃい。ちょうど今、子牛たちを洗っているところ」。競りを目前に控えた8日、玉牧場を訪れると久留須さんが笑顔で迎えてくれた。案内された先では、子牛が青空の下でシャンプーしてもらっている。競りで映えるよう“身だしなみ”を整えるためだ。
3頭並べてつながれ、毛を刈りそろえた後、ホースでぬるま湯を全身にかけられる。慣れないのか興奮して暴れていたのが、シャンプーの白い泡に包まれると気持ちよさそうに目を細め、だんだん落ち着いてきた。黒い毛からは、ほかほかと白い湯気が上がっている。
「スーパーで野菜を買う時もきれいな物を買うでしょ。それと同じで一番きれいな状態で売りたいから」と久留須さん。牛のことを「さん付け」で呼びながら、丁寧に洗い上げていくのが印象的だ。生活を支えてくれる生き物への感謝と敬意がひしひしと伝わってくる。
シャンプーを終えると削蹄(さくてい)する。ひづめを整えることで立ち方や歩き方が美しくなるそうだ。最後に尻尾の先まで細かい毛並みを整えたら生育を確認するために体の大きさを記録し、牛舎に戻した。3日後の競りに向けた準備は万端だ。
■いくらで競り落とされた…
4月11日、いよいよ迎えた競りの当日、朝から姶良中央家畜市場を訪れた。「せっかくだから手綱を引いてみたら」と久留須さんから提案があり「のえる」号とともに競り場に立つことになった。
新型コロナウイルスの感染が拡大していたころはひっそりとしていた市場は最近、にぎやかさを取り戻してきた。競りの順番を待つ農家が談笑している様子があちこちに見られ、地域内で育てられた和牛肉や農業資材の販売もある。
待ち時間にハプニングが発生した。玉牧場で留守番していた母牛にお産の兆候が表れ、久留須さんが牧場に戻ることになったのだ。農家は24時間365日、どこにいても気が抜けない。生き物を相手にする仕事の重みを実感する。
そうしている間に順番が近づいてきた。久留須さんの夫・茂さんの手ほどきを受けて手綱を握る。300キロ近い巨体の力は思った以上だ。牛の動きに合わせて手綱を引いたり緩めたり、上手く扱わなければこちらが振り回されてしまう。
競り場に連れ出すと、興奮した様子で駆け出した。茂さんがなだめて購買者の方にお尻を向けさせた。大きく成長する体型か、購買者の視線が集中する。見られているのは自分ではないと分かっていても落ちつかない。
競りが始まった。正面の天井に設置された電光掲示板の数字がどんどん大きくなる。止まった。表示されていたのは56万1000円。「今の相場なら上々かな」と茂さん。購入したのは県内の肥育農家だった。
同じ名前の子牛に愛着が湧いていたため、あと20カ月後には肉として食べられると思うと少し寂しい。ただ、それ以上に元気に育ってほしい気持ちが大きい。会ったこともない誰かの食卓に並び、「おいしい」と言われる日が楽しみでもある。