兄弟4人が続々と戦地へ。病死の母に代わって育てた末弟は終戦の前日、中国で線路が爆破され即死。わずか19歳、帰ってきたのは2本の歯だけ・・・三男もルソン島が最期。飲み水すら満足に口にできなかった〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/09/05 10:00
戦前は生家近くの上之原水源地でよく花見を楽しんだ。当時、末弟の義彦さんと並んで撮った写真を手にする松山シヅさん
戦前は生家近くの上之原水源地でよく花見を楽しんだ。当時、末弟の義彦さんと並んで撮った写真を手にする松山シヅさん
■松山シヅさん(90)鹿児島市千年2丁目

 鹿児島市上竜尾町で二人の兄と四人の弟に囲まれて育った。長男の豊彦は戦前に腹膜炎をこじらせて亡くなった。五男の国雄は太平洋戦争開戦一周年の軍事教練で右脚を骨折。ひざが曲がらなくなったため兵役を免れたものの、ほかの兄弟四人は次々と戦地へ赴いていった。うち二人の悲報を受け取った。

 戦死した三男の武雄は警察に入り、奄美大島などで巡査をしていたが召集され、フィリピンのルソン島が最期だった。戦友らの話では食う物も飲み水すら満足に口にできず、着の身着のままの悲惨な状態だったという。

 六男で末弟の義彦は終戦前日の一九四五年八月十四日、中国河南省で線路が爆破され、職務で移動中だった列車が転覆。即死したと聞いた。まだ十九歳での殉職だった。

 弟の中でも特に義彦はかわいがっていた。入院続きだった母ケサマツが三〇年に病死したため、まだ幼い義彦を私が母代わりとなって育てた。いつも「姉ちゃん、姉ちゃん」となついてきて、まるで息子のようだった。しかし、尋常高等小学校を卒業してすぐに北京での鉄道勤務のため大陸へ渡り、見知らぬ土地で短い人生を終えた。二本の歯が遺品として故郷へ帰ってきただけだった。終戦があと一、二日早ければ、生きて帰ってきたかもしれない。

 武雄も心優しい子だった。県立第二高等女学校(現甲南高校)へ通い、勉学に熱中していた私の分まで入院中の母に付き添い、よく面倒を見てくれていた。

 一方で戦地で生き残った二人も非常に苦しい思いをしてきた。二男の節は赤紙が来て海軍に入り、シンガポールで終戦。四男の功は自ら志願して軍へ。中国南部などを転戦し、ブーゲンビル島で部隊がほぼ全滅したが何とか生き残った。最後は軍旗を焼くなど壮絶だったらしいが、何があったかは口を開かぬまま三年前に亡くなった。

 残る家族も戦禍に遭った。四五年六月十七日の鹿児島市大空襲で焼夷(しょうい)弾が自宅を直撃、全焼した。足の不自由な国雄が父を背負って上之原水源地のトンネルまで逃げていたため、何とか助かった。しかし、体が弱っていた父は四六年九月、赤痢で亡くなった。生き延びた二人は復員が遅く、父をみとることはできなかった。

 現在、兄弟のうち国雄はまだ元気だが、私が一番長生きしている。入院している病室の窓際にお茶を供えるのが私の朝一番の日課だ。供養の思いを抱えながら、毎日を生きている。

(2006年3月30日付紙面掲載)

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