幻に終わった特攻出撃。終戦後、軍部は分裂した。広島も、鹿児島も…町は一面、焼け野原。私たちはマインドコントロールされていた。死んで花実が咲くものか。

2023/10/23 12:00
当時の日記帳を元に「国民が賢くなる必要がある」と話す後庵彌三郎さん
当時の日記帳を元に「国民が賢くなる必要がある」と話す後庵彌三郎さん
■後庵彌三郎さん(80)西之表市西之表

 一九四四(昭和十九)年三月に旧制種子島中学校を卒業、難関を突破して念願の陸軍予科士官学校(埼玉県朝霞市)に入学した。当時、軍国主義教育を受け、軍国少年と呼ばれていた私たちは、「勉強して国に仕えるのは当たり前。どうせ徴兵で軍役に就くのなら最初から将校を目指せ」と教えられていた。

 太平洋戦争終盤で戦況不利の中、学校では完全軍装で五十キロもの行軍を三日間徹夜で行うなどの決死敢闘訓練に明け暮れ、四五年二月には航空士官学校(埼玉県入間市)に進んだ。私は戦闘機要員に選ばれ、七月、東満州海浪での操縦訓練のため京都・舞鶴港に向かい乗船を待った。

 ところが、舞鶴港の海軍輸送船が米軍機の攻撃を受け航行不能となった。このときの空襲が初めての実戦で、教官や同期生、対空射撃の海軍兵の戦死した現場は無残だった。次の乗船機会を待つために京都府福知山の廠舎(しょうしゃ)で待機していると、日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍が満州に侵攻を開始、最終的に渡満できなかった。待機中に広島、長崎に原爆が投下されたとの情報が届いた。「新型爆弾には白い服を着用して対応せよ」との指令が入ったが、今考えてもお粗末だったと思う。

 八月十五日に終戦の報が入り、部隊は航空士官学校に戻った。東京では軍部が「徹底抗戦派」とポツダム宣言を受け入れる「承詔必謹(しょうしょうひっきん)派」とに分裂、不穏な情勢が続いていた。士官学校でも両派に分かれて一触即発の状態。血気盛んな若い将校から部隊を隔離しようと、私たちの部隊約八百人は、秩父の国民学校に疎開させられた。その後事態が収拾すると、各部隊ごとに復員式があり出身地に戻った。私も八月末には鹿児島への帰途に就いた。

 途中で原爆を落とされて一カ月もたたない広島を通過。建物もほとんどなく、何もない中に鉄路だけが残り、普通の戦災を受けた感じではなかった。「人間は永久に住めない」と当時言われたぐらい。極めてむなしい気持ちになった。

 九州に入っても鹿児島本線はずたずたに破壊されており、日豊本線で南下したが、徒歩と汽車の乗り継ぎだった。鹿児島駅に到着すると鹿児島市内は一面の焼け野原で、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)がすぐそこに見えた。

 GHQ(連合国総司令部)の命令で日本船舶の航行が禁止され、南島への復員を待つ陸海軍兵が市内の焼け残った倉庫にあふれていた。復員兵たちの食料がなく、長田町にあった西部一八部隊に糧秣(りょうまつ)支給の交渉にでかけた。すると、「米軍が徴用する」というデマが流れており、兵隊らは大口などに逃げ、雲隠れしていたこともあった。

 私は旧佐多町に帰るという海軍士官と一緒に、なかば脅迫して機帆船をチャーター、米軍の監視をかいくぐり、夜やみに紛れて同町伊座敷に渡った。半月待っていると、大口、菱刈に疎開していた種子島の子供たちの帰還船が大泊港に寄ると知り、乗船を頼んでようやく西之表市住吉にたどりついた。同市内も復員を待つ日本兵であふれていた。

 後で調べたところ、原爆投下や終戦がなければ、私の部隊は東満州での操縦訓練後、わずかな飛行時間で特攻隊に配属され、本土決戦時の切り札となる予定だった。旧制種子島中学時代の同級生で一年先に海軍に進んだ友人は四五年五月、沖縄の慶良間群島で米艦に突っ込み戦死していた。

 当時の軍国少年たちはマインドコントロールを受けていたと思う。戦争をしなくてすむように、国民が賢くなる必要がある。戦争には勝者も敗者もない。死んで花実が咲くものか。

(2006年9月22日付紙面掲載)

日間ランキング >