長崎の魚雷工場に学校報国隊として動員された。最初は修学旅行気分で楽しかったが、夜になると皆泣いた。作業場は山中に掘られたトンネルの中。軍歌を歌い行進して毎日通った【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊤】

2024/09/14 21:00
戦後、国分高等女学校の卒業式で同級生と並ぶ東和子さん(後列左から2番目)
戦後、国分高等女学校の卒業式で同級生と並ぶ東和子さん(後列左から2番目)
■東 和子さん(94)霧島市国分松木町

 国分高等女学校(現国分高校)に入学したのは、太平洋戦争が始まって5カ月たった1942年4月だった。国分尋常小学校から3人だけ進学した。誇らしかった。精華高校(現国分中央高校)で英語を教えていた父・山口吉助の影響で、英語の授業が一番の楽しみ。福山から教えに来る先生もとてもすてきに見えた。ところが敵性語とされ、2学期からはなくなってしまい残念だった。いつももんぺに国民服姿。憧れのセーラー服は一度も着なかった。

 体育の時間は行進の仕方や竹やり、バケツリレーなど在郷軍人による軍事教練。裁縫の時間は、洗ってもいない兵士の下着が山のように運ばれてきて、ひたすら補修した。ほかの授業もどんどん奉仕作業に替わった。出征兵士の田畑の手伝いや炭焼き。住んでいた松木地区の近くにあった海軍航空隊第一国分基地(現陸上自衛隊国分駐屯地)の滑走路の芝張りなども担った。

 母の妹・別府アグイの家は第一国分基地のすぐそばだった。自分は4人きょうだいの一番上で、末弟の征夫はいとこと一緒に飛び立つ訓練機や戦闘機をよく見に行っていた。基地には、高射砲に見立てて青竹を空に向け、周囲にわら人形を並べたものがいくつか置いてあった。上空からすぐに偽物だと分かったのではないかと思う。

 戦争末期になると、第一国分基地からは特攻機も飛び立った。戦後、征夫が「おじさんとおばさんとはちまきを締めた兵隊さんが昼間から焼酎を飲んで、おばさんは地面をたたいたりゴロゴロ転がったりしていたよ」と振り返っていた。わが子との別れを悲しむ家族だったのだろう。

 1945年4月。国分高女4年になると、長崎県川棚町の川棚海軍工廠(こうしょう)に学校報国隊として動員された。15歳だった。着替えのほかにぎり飯や煮しめを詰めたリュックサックを背負って国分駅から鹿児島駅に行き、県庁前で結団式があった。県内各地から何百人もの学生が集まっていた。「日本は必ず勝つ」と訓示があり「お国のために」と決意を新たにした。

 川棚に向かう汽車は窓が閉められ「大きな声でしゃべるな」と言いつけられた。川棚駅から宿舎までは1時間ほど歩いた。寝泊まりする第13宿舎は山の中の新しく立派な建物だった。友達と「きれいな所だね」と喜んだ。8畳1間の寮に6人か8人くらいが割り振られた。最初は修学旅行気分で楽しかったが、夜になると家が恋しくなり、みんな泣いた。

 工場勤務は1直(午前8時~午後6時)、2直(午後6時~午前1時)、3直(午前1時~午前8時)と3交代制で24時間稼働していた。事務担当だったため、毎日午前8時半から午後5時半の勤務。部屋に出入りするときは寝ている人もいるので起こさないように静かに歩いた。山あいにある工場までは、軍歌を歌い行進して通った。

 何を造る工場かも知らなかったが、後から魚雷の部品だったと知った。作業場は山中に何本も掘られたトンネルにあった。高さ3メートル、幅4メートルほどで、深さは数十メートル。総勢千人以上が働いていた。国分高女の同級生たちはトンネルの入り口付近でネジの検品をする「検査班」。私とほか2人は、工場の近くの建物にある事務所で作業した。原稿や口述の指示をカーボン紙で書き写し、指定のトンネルに届けた。

 食事は大豆の搾りかすを混ぜた麦ご飯。野菜はジャガイモと黄色くなったキュウリのみそ汁くらい。食べ盛りでいつもおなかがすいていた。古里からあくまきや餅、カライモを蒸して干したものが届くと、同室で分け合って食べた。
 川棚に動員された4月、第一国分基地の周辺は度々空襲を受けた。17日の空襲で叔母の家が爆撃を受け、叔母と祖母が防空壕(ごう)の中で亡くなった。家に帰るのを許されたのは母を亡くしたいとこの貴美江だけだった。

 8月9日も、いつも通り事務作業をしていた。

(2024年9月14日付紙面掲載)

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