軍人になる男子第一の時代…9人娘のわが家には入隊時の「鎮台祝」も無縁だった。戦後、3人の娘に恵まれた。肩身の狭い思いはない。平和な世の中が一番だ【証言 語り継ぐ戦争】

2024/09/17 06:28
藤山善子さん
藤山善子さん
■藤山善子さん(91)宮崎県都城市山田町中霧島

 1933(昭和8)年5月、庄内町(現都城市庄内町)で農業を営む父・乙守善長(よしたけ)と母・トミの七女として生まれた。家は南洲神社参道入り口近くにあった。

 きょうだいは、9人目まですべて女だった。当時は軍人となる男子の誕生が歓迎された。庄内では軍入隊時に鶏をつぶして隣近所に振る舞う「鎮台祝(ちんだいゆえ)」と呼ばれる宴を催すものだったが、わが家には無縁だった。父母も世間に負い目があっただろうと思う。40年、10人目にしてようやく長男が生まれた際は、地域の人が祝いの花火を上げてくれた。

 男が尊ばれる時代にあっても、父は娘たちを都城高等女学校や和裁学校などに進ませてくれた。

 女学校卒業後、小学校教師をしていた長姉のミヨは、鹿児島銀行の行員に嫁いだ。娘1人をもうけたが、43年9月に夫は陸軍に召集された。姉は戦地に向かう夫に会うため都城駅に赴いたが、行動を知られたくない軍は異なる場所で兵士を乗車させて、会うことがかなわなかった。

 その後、北九州・門司港から夫の小包が届き、乳飲み子を連れて急ぎ同港に向かったが、輸送船は、既に出発してしまっていた。1カ月もたたない44年6月、夫の戦死通知が届いた。船はフィリピン沖で米潜水艦に沈められていた。「一目会いたい」という家族のささやかな望みさえ、かなえられない時代だった。

 私は庄内国民学校(現庄内小学校)の児童だった。学校では43年ごろから、出征軍人宅の農作業を手伝う勤労奉仕が増え、通常授業は減っていた。麦踏みの時は「米英撃滅」と、大声で唱和しながら、力を込めて麦を踏んだものだ。女学校に在学していた姉は、都城駅近くの川崎航空都城工場に動員された。飛行機にペンキで日の丸を描く作業を任され、服はいつもペンキで汚れていた。つらい思いをしたことも多かったらしく、家に帰って泣いていることもあった。

 45年春になると、庄内にも陸軍部隊が進出してきて、国民学校は宿舎となった。自宅の隠居部屋にも将校1人が寝泊まりし、佐賀出身の緒方さんという従卒が、軍馬で送り迎えをしていた。城山には、数多くの横穴壕(ごう)が掘られ、軍物資が蓄えられていた。

 8月6日正午ごろ、自宅にいると、兵士が「都城市街地が空襲されている」と教えてくれ、母やきょうだいと敷地内に造っていた防空壕に入った。南洲神社の高台に様子を見にいった父が「敵機がこっちに向かってくるぞ」と言うので、幼い弟たちの手を引き、神社裏の城山に逃げた。

 国民学校近くにドーンと爆煙が上がり、ダダダーという機銃掃射の音も鳴り響いた。焼夷(しょうい)弾で学校の講堂や校舎に火が付き、かやぶき屋根の集落の家々に燃え広がった。火は隣家まで延焼してきたが、幸い境界に植えていたツバキの木が火を防いでくれ、わが家は難を逃れた。私は今も花火が苦手だ。花火がはぜる音が、あの時の爆弾や機銃掃射の音を思い起こさせる。

 戦後、元海軍兵の夫と結婚して娘3人に恵まれた。子どもが女だけでも、戦時中のような、肩身の狭い思いをすることも今はない。平和な世の中が一番だ。

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