自宅があった近くの公園で、警戒警報も空襲警報も鳴らなかった夜を語る下池和善さん
■下池和善さん(81)日置市東市来町長里
1945(昭和20)年6月17日夜の鹿児島大空襲は、空襲警報もなく始まった。午後11時ごろ窓に稲光が走り、爆発音が聞こえた。急いで庭の防空壕(ごう)に飛び込んだ。
自宅は鹿児島市上荒田町、旧日本専売公社工場の正門前にあった。今は市電の軌道敷になったが、当時は周りに田んぼが残っていた。
土をかぶせた壕にしゃがんでいると、音しか聞こえない。B29爆撃機のうなるような音、爆弾が空気を切り裂く「しゅるしゅるしゅる」という音、そして「バーン」という大きな爆発音だ。
怖かった記憶はない。旧制県立二中(現甲南高校)3年生になりたての15歳、子どもだったと思う。壕から外を見ると、鴨池の海軍飛行場付近からえい光弾が梅雨空に発射されていた。武岡、天保山、唐湊の高射砲陣地からも撃ったはずだが、よく覚えていない。
1時間ほどで音はやみ、外に出た。市街地はもう火の海。炎が強い風を起こして、火の手は自宅に迫りそうだった。
大空襲の夜は、たまたま姉が泊まっていた。その姉に「かっちゃん、竹ざおを持ってきなさい」と言いつけられた。それで何をするのかと思ったら、持っていた腰巻きを先端にくくりつけた。
「火の魔物は腰巻きを忌み嫌う」。怪しい話も信じるしかない。必死だった。自宅の玄関前に竹ざおを立てた。空の腰巻きが強風に、びゅんびゅんと揺れた。
朝になってみると、家の周りに不発の焼夷(しょうい)弾がごろごろ転がっていた。油が強く臭った。
午前7時ごろ、B29が1機だけ北から南へごう音とともに飛び去った。空襲の効果を確認しているんだと思った。
それから何日か後、今の鹿児島大学農学部のあたりで、母ほどの年齢の女性が二中の制服姿のわたしをじっと見ていた。空襲で死んだ同級生のお母さんだった。
上着は灰色で詰め襟、陸軍と同じ戦闘帽に白い線が入っていたと思う。亡くなった息子と、わたしを重ねていたのだろう。かわいそうだった。
当時の二中は、陸軍や海軍士官の合格率が全国トップクラス。軍人にあこがれる学校だった。
12月8日には軍神、横山正治少佐の実家に隊列を組んで拝みに行った。硫黄島から届いた先輩の手紙が、朝礼で校長から紹介されたこともある。
戦時中は飛行機や兵の動きをみだりに言うな、スパイがいるから、と言われていた。
鹿児島市は空襲が何回かあったし、空中戦もあった。陸軍戦闘機「隼」が隠れるように知覧へ向かうのも見た。
だが、見聞きしたことの意味は、後に本を読んで分かった。鹿児島大空襲に参加した爆撃機は、市街地の明かりが消えておらず、爆撃の最中に灯火管制が行われたと報告している。
特攻が始まった後、鴨池を飛び立った飛行機が城山上空でUターンして、鹿児島市を南下していくのを見た。別れを惜しんでいたなと、今にして思う。
(2011年8月26日付紙面掲載)