戦時中の写真を手に、当時を振り返る天野凉子さん=志布志市志布志町安楽
■天野凉子さん(84)志布志市志布志町安楽
「明日の朝一番に出撃します。最後に見送ってもらえませんか」―。鹿屋市大手町で果物店を営んでいた自宅には、鹿屋航空隊に所属する1人の特攻隊員が下宿していた。彼が出撃したときのことは、66年たった今も鮮明に覚えている。
愛知県出身、年齢は23歳くらいで「木原さん」と呼んでいた。真面目で面倒見がよく、時間があると家族の写真を見せてくれた。「お国のために早く死にたい」が口癖で、自分で遺影も準備していたが、母は「死ぬだけがお国のためじゃなかよ」と慰めていた。きっと出征した兄に思いを重ねていたのだろう。わが子同然に接していた。
ある日、彼は笑顔で家に帰ってきた。「やっと出撃が決まりました」と、見たことがないくらい上機嫌。そして、母に向かって「今日だけは“おばさん”ではなく“お母さん”と呼ばせてください」と続けた。
その日の夕食はごちそう。食料が手に入らない時代にどうやって工面したのか、母は「まぜご飯」まで用意した。せめて最後の夜ぐらいはと、精いっぱいの心遣いだった。
出撃前夜とは思えない和やかな雰囲気で食事を終え、私は床に就いた。だが、夜が更け、何時になっても彼の部屋の電灯は明るいまま。気になって、そっとふすまを開けて部屋をのぞくと、家族の写真を前に声を押し殺し、手ぬぐいで目頭を押さえて肩を震わす後ろ姿が目に飛び込んできた。
「本当は死にたくないんだ…」と、かねてと全く違う姿に衝撃を受けた。そして、「死」を待つことしかできない、彼の無念さが伝わってきて胸が詰まった。
次の朝早く、彼が家を出た後、見送ろうと両親と家の軒先に立って空を見上げていた。しばらくするとエンジン音が聞こえ、三角形の編隊を組んだ飛行機が見えてきた。手にした手ぬぐいを思いっきり振ると、先頭の飛行機が両翼を上下に振り、あっという間に南の空へと消えた。ほんの一瞬の出来事だった。母はすぐに近所のお寺へと駆け出した。武運と冥福を祈ったのだろう。そして、彼の部屋に残されたトランクに愛用の品を入れ、家族の元へ送った。
彼が飛び立って3カ月後、戦争は終わった。米軍がやってくると、鹿屋は街中が大混乱。特に若い女は危ないとうわさが飛び、当時18歳だった私も「もし米軍が来たら、背中から刺し殺して」と両親にお願いしていた。結局、私たち一家はリヤカーを引いて山に逃げ込み、質素な生活で本当に惨めだった。
戦争は恐ろしくて残酷。「死にたくない」人間に「死にたい」と言わせてしまうのだから。若者たちは操縦かんを握って飛び込む瞬間に何を思い、何が見え、何が聞こえたのだろう―。そう思うといたたまれない気持ちでいっぱいだ。
来年、成人を迎える孫がいるが、ふと特攻隊員に思いを重ねてしまうことがある。もし、この子が特攻にとられたら…。考えただけでゾッとする。わが子や孫がとられる戦争は繰り返してはいけない。そのためにも、若い人にそんな時代があったことをもっと知ってほしい。
(2011年12月7日付紙面掲載)