「正義のための戦争はない」と語る坂上多計二さん=姶良市平松
■坂上多計二さん(87)姶良市平松
父の仕事の関係で子供のころ台湾にいた。1942(昭和17)年に台中州立台中農業学校を卒業し、18歳で三井物産の子会社の三井農林に入社した。台湾人を含む120人が、軍属としてニューギニアに渡航する予定だったが、戦況悪化で困難に。フィリピンのマニラで海軍軍需部に徴用され、ミンダナオ島のダバオにあるラパンダイの海軍直営農場で、軍に供給する生鮮野菜の現地生産に従事した。
1年後、徴兵検査を受け、陸軍に入隊することになったが、海軍の命令によりそのまま農場で営農指導を続けた。45年5月、米軍がミンダナオ島へ上陸し攻撃を開始。農場も砲撃を受け、多数が死亡し、負傷者も続出した。台湾人30人の小隊を率いてジャングル奥地へ逃げた。
やがて現地人の開墾跡地を見つけた。ヤマビルを避けるために、高床の小屋を作りねぐらにしたが食料はない。2班に分かれ、交代で平地へ食料調達に向かうものの、栄養失調と体力消耗で、動けなくなる隊が増えてきた。そのためジャングルで自活することにした。
シュンギクに似た雑草が、煮れば食べられると分かり主食にした。「ヤマシュンギク」と命名した。このほかイモのつるやトカゲやヘビなどの爬虫(はちゅう)類、鳥や猿も銃で撃ち、競って食べた。
ある時、同じように逃げてきた1人の日本兵が現れ、「泊めてほしい」と頼んだ。飢えている様子だったが、こちらも極限状態。余裕はなく断った。翌日、近くでその日本兵が死んでいた。家族と思われる写真が地面に3枚置いてあった。望郷の念を抱きながら旅立ったのかと思い、残酷なことをしたと胸が痛んだ。写真には「妹尾」と名前が書かれていた。
飢えで命を落としたのは、「妹尾」さんばかりではなかった。ジャングルを少しさまよえばプーンと死臭が漂い、倒れた日本兵に遭遇したものだ。大木に寄りかかった日本兵がいた。遠目にはほほ笑んでいるように見えたが、近づくとすでに絶命していた。口内と眼球には水分があるため、死ぬとすぐにハエが産卵する。口と目にウジがわき、それが白い歯と薄目を開けて笑っているように見えたのだ。敗残兵の死にざまに、明日の命も分からぬ自分の姿が重なった。
終戦も知らず、ジャングルでの自活が5カ月を過ぎた頃、隊員がビラを拾ってきた。米軍が投下したものらしく「広島にウラニューム爆弾」「鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言受諾」と書かれていた。にわかには信じられず、投降したものかどうか議論になった。「米軍に殺される」という不安もあったが、このままでは飢えによる犠牲者が増えるばかり。小隊30人のうち、すでに半数は亡くなっていた。
9月30日、生き残った隊員10人と米軍前線に投降。戦闘帽に山盛りのビスケットとコンビーフの缶詰を支給された。うれしくて夢中で食べたが、空腹続きで胃がおかしくなっており、皆腹を壊した。その後、収容所で使役につき、11月22日に横須賀に戻ってきた。
哀れな死に方をした敗残兵たちをふびんに思い、復員してから今日まで体験を語ってこなかった。家族には「戦死」とだけ記された公報が届くが、戦場に散ったのは勇ましく戦った人ばかりではない。地獄をさまようように死んでいった無数の兵士がいることを、後世に伝えたいと思う。「妹尾」さんに対する罪の意識は今も消えない。
(2012年7月1日付紙面掲載)