理不尽なしごき受ける日本軍の下級兵…終戦で上下関係が一変すると、“兵隊やくざ”におびえる元上官は農家の父に助けを求めた【証言 語り継ぐ戦争】

2025/08/14 17:03
戦時中に見た旧日本兵たちの姿を語る平元隆さん=阿久根市赤瀬川
戦時中に見た旧日本兵たちの姿を語る平元隆さん=阿久根市赤瀬川
■平元隆さん(90)=鹿児島県阿久根市赤瀬川

 戦時中の出水は「兵隊さん」の町だった。海軍の航空基地があり、県外からも大勢の兵士が集められたため宿舎が足りず、集会所で雑魚寝する人、農家に下宿を頼む人もいた。

 出水市向江町で農業を営んでいたわが家も受け入れた。両親と子どもたちの6人家族で、いつも米より麦やカライモの方が多いおかゆを食べていたが、農家ということで、食べ物があると期待されたのかもしれない。

 食糧事情が良くないのは軍隊も同じ。ある日、下宿の兵士が母に小さな包みを渡して「これを煮てくれませんか」と頼んできた。中身は箸が入らないほど硬くなった、麦ばかりの飯。そんな様子が気の毒だったのだろう。母は小麦粉が手に入ると、すいとんを作って振る舞い、喜ばせた。「ここのだご汁はうまい」と評判になったらしい。

 うちにいたのは二等兵など下の人たちばかり。庄屋の家を譲り受けて移築した広い建物で、軍曹など偉そうにしている人は父が断っていたから、居心地は悪くなかったはずだ。

 兵士たちがひどいしごきを受けるのを、何度も目にした。街で上官とすれ違い、敬礼の手を下げるのが早かったからと怒鳴られ、殴られた。友達と川で遊んでいた時も、尻を棒でたたかれ、次々と川に落とされる姿を見た。はい上がれば「落ちるのは根性が足りない」と、また棒で殴られる。私たち子どもはただただ怖くて、身を隠していた。

 理不尽なしごきを見ると父は「そんなことをするならもう誰も下宿させんぞ」と止めに入った。日中戦争で海南島に送られ、炊事兵をしたから、身につまされるところがあったのかもしれない。

 軍の上下関係は、終戦で一変した。ほとんどが早々に去って行く中、出水に残って暴れる人たちがいた。俗に言う“兵隊やくざ”で「お礼がしたい」、つまり仕返しをしようと、元上官たちを捜していたらしい。

 身に覚えのある元上官たちは、気が気でなかっただろう。ある時、仕返しを恐れて、わが家へ助けを求めて来た人がいた。裕福でなかったのに、父は自分の衣服に履物、眼鏡まで与えて変装させ、こっそり町から逃がしてあげた。

 その人は無事に県外の地元へ帰れたようだ。「命の恩人」だと、1970年に父が亡くなるまで、毎年欠かさずお礼の手紙が届いた。

(2025年8月14日付紙面掲載)

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