出水国民学校4年生の集合写真で笑顔の平元隆さん(後から2列目の左から4人目)=1944【預S注意】(昭和19)【預E注意】年
■平元隆さん(90)=鹿児島県阿久根市赤瀬川
戦時中、出水市向江町にあったわが家の近所で、松根油(しょうこんゆ)が作られていた。広場に大きな松の根っこがいくつも転がり、大きな釜が据えられた。飛行機の燃料として製造されたが、長時間使うとエンジンが焼け付くので、戻る必要のない特攻機に使われたと聞いた。うちでは明かりのランプに使った。
今となっては、燃料一つとっても勝ち目のない戦争だったと分かる。でも、物心ついた時から「必ず勝つ」と教え込まれた私たちは、日本の快進撃を信じきっていた。
1945(昭和20)年8月15日昼、仲間の家を訪ねると、そこのおじさんに「おい、戦争は勝ったぞ」と声をかけられた。「勝った、やった」と大はしゃぎしたが、おじさんはすぐに戻ってきて「日本は負けた」と逆のことを言い出した。ラジオの玉音放送を勝利宣言と勘違いしたらしい。
慌てて家に帰ると、両親は荷造りの真っ最中。「米兵が上陸すれば全員殺される」と言う。荷車に家財道具を積み、通りへ出た時には、同じような人と車で大渋滞が起きていた。
行き先は山間部の大川内にある親戚の家。10キロ以上の道のりを一歩進んでは止まり、また一歩進んでは止まり、といった調子で一晩中歩き続けた。まだ6歳の弟は歩きながら居眠りして、何度も転んだ。
「敵に殺されるくらいなら自決せよ」と教わったから、親戚の家に着いた後も助かったと思えなかった。最期くらいは白いご飯を味わおうと、その日は米を炊いた。あんなにあこがれていたのに、ちっともおいしくない。食べ終わったら自決だと思えば、味なんてしなかった。
すると、父が町の様子を見てくると言い出した。「もし俺が戻らんかったら、死んだと思え」と、待っているよう言い残して出て行ったが、なかなか帰って来ない。3日たち「米兵に殺されたのでは」「やはり自決か」と絶望しかけた頃、ようやく父が姿を見せた。
「なーんもない。米兵なんか一人もおらん」と、あっけらかんと言う。時間がかかったのは、仕事を片付けていたからだった。それを聞いて、ようやく安心して町へ戻った。
しばらくして出水に米兵たちがやって来た。誰に教わった言葉か忘れたが、私たちが「プリーズ プレゼント チューリンガム」と呼びかけると、菓子を投げてくれた。その頃はもう、自決なんて考えなかった。
父の冷静な判断があったから死なずに済んだ。今、家族と笑っていられるのも、生きているからこそだ。
(2025年8月15日付紙面掲載)