父静雄さんが家族に送ったはがきを前に、思いを語る渡辺忠さん
■渡辺忠さん(87)鹿児島市明和3丁目
1937(昭和12)年、4人きょうだいの次男として現在の鹿児島市高麗町で生まれた。父静雄は同市下伊敷にあった軍の練兵所で車両整備をしており、母ツルエは助産師だった。45年4月、市内で始まった空襲を避け、家族で両親の故郷・鹿屋市田崎町に疎開した。
その後すぐ父は召集された。32歳だった。一緒に召集された人たちと田崎の神社を参拝し、鹿屋駅に向かった。駅までの約2キロの沿道に集落の人々が並び、国旗を振っていた。出征者も「勝ってくるぞ」と声を上げていた様子を鮮明に覚えている。小学校低学年の私は何も分からず、無邪気に出征者の列について回った。父は「戦地に行って死んでくる」と、母や兄に言っていたそうだ。
8月に終戦を迎えた後も戦死公報は届かなかった。母は父の帰りを信じ、毎月23日に父の背広や靴を虫干ししていた。なぜ23日だったのかは分からない。父はおしゃれな人だったという。庭の物干しにずらりと背広が並ぶ様子は、集落でも有名だった。母は当時30歳。子ども4人を抱え、夫が戻ると信じなければ頑張れなかったのだと思う。
小学5年生のころ、同郷の父の戦友が訪ねて来て、初めて戦死したと分かった。父は旧満州で、ソ連との国境に近い牡丹江守備隊に従事していたそうだ。8月9日、ソ連が満州に侵攻。終戦直前の14日、重要拠点だった小豆山で、地面に穴を掘ってソ連の戦車部隊を待ち構え、ガソリンを入れたビール瓶のようなものを持って突撃したという。生きる見込みのない作戦で、悔しい死に方だったと思う。
父が満州から送った7通のはがきが残っている。軍事郵便だからか消印はない。私宛ては、子どもでも読めるようにほとんどカタカナ書きだ。叔父が手紙で兄や私の学校での様子を報告しており、「一番ダッタトノコト オ父サンハ天ニトブホドウレシイデシタ」と喜んでくれていた。恩師や親戚、近所の人の名前を挙げ、よろしく伝えてほしいと気遣っていた。遠く離れた戦地で、どんな気持ちで書いていたのだろう。丁寧な文字を見るたびにやるせなく、涙がこみ上げてくる。
母は助産師として働いたが、農家の依頼が多く謝礼はコメやサツマイモだった。祝いの赤飯や刺し身をもらってくることもあったが、おいしそうな魚の刺し身は弟や妹に譲った。貧しさを思い出すからか、今も刺し身が嫌いで食べられない。
家計の足しにと、小学6年から新聞配達を始めた。鹿屋高校に通う五つ上の兄誠利は優秀で、周囲は九州大学に進むと思っていたが、宮崎銀行に就職した。母を助けるための決断だっただろう。服を買う金がなく、父の形見の背広で出勤していた。弟や妹にとっては、兄が父親代わりだった。
母は91年に76歳で亡くなるまで、子どもの誰か一人でも父が無念の死を遂げた場所に行ってほしいと願い続けた。2000年に牡丹江の小豆山を訪ね、父の好物の焼酎とたばこを手向けた。55年間も供養に来られなかったことが申し訳なく、涙があふれた。小豆山で拾った小石を遺骨の代わりに鹿屋の墓に納めた。
私は鹿屋高校を卒業後、鹿児島県警に入った。鹿児島大学に行きたかったが、受験に行く旅費すらなかった。父のいない戦後は貧しく苦しかった。今も大学でもっと学びたかったと強く思う。子どもたちが経済的な心配もなく、やりたいことを自由に選べる日々であってほしい。戦争は二度と繰り返してはならない。
(2025年8月21日付紙面掲載)