兄から届く「ウニ七」と記されたはがき。太平洋戦争の激戦地、硫黄島からだった。やがて戦死を知らせる手紙が届いた。24歳。もっと話をしたかった

2025/08/25 10:00
兄榮次さんの写真を手にする内田正道さん=霧島市隼人町神宮の自宅
兄榮次さんの写真を手にする内田正道さん=霧島市隼人町神宮の自宅
■内田正道さん(80)霧島市隼人町神宮2丁目

 戦況が悪化し始めた1945(昭和20)年2月ごろ、通っていた隼人町立宮内国民学校では鉄棒が撤去され、跡地に自分たちで防空壕(ごう)を造った。当時13歳。自宅の電球は灯火管制で明かりが漏れないよう黒い布でかさごと包み込むようになった。

 季節ごとの花が咲いていた学級花壇は、キャベツやカボチャなど野菜の苗が植えられた。弁当は週に1度、サツマイモを持っていくようになったが、胸焼けがして苦手だった。しかし、食べ盛りだったから、配給が滞ると、生で食べたこともある。しょうがなかった。

 11歳違いの兄榮次は、21歳で徴兵検査を受け、鹿児島市が拠点の陸軍十八部隊に入隊した。最初は機関銃隊に配属されたが、地元の先輩に勧められ、衛生兵に転じた。

 おやじと汽車と市電を乗り継ぎ計23回、面会に行った。どんな話をしたかほとんど覚えていない。差し入れにはガネをよく持っていったけど、周囲を見ると魚の煮付けなどごちそうを持ってくる面会者もいて、兄には申し訳ない気がした。

 そのうち兄からは千葉県の木更津郵便局気付「ウニ七」と記されたはがきがくるようになった。ウニ七とは、太平洋戦争で激戦が繰り広げられた硫黄島のこと。兄はこの島で45年3月17日、24歳で生涯を閉じた。

 戦死を知らせる手紙が家に届き、家族は何とも言えない気持ちだったが、悔しい思いをしているのは私たちだけではないと思い、耐えるしかなかった。本当は、無事に帰ってきてもらい、ゆっくり話をしたかった。兄が祭りでバナナを買ってきてくれたり、正月、鹿児島神宮へ一緒に参拝に行ったりしたことが数少ない思い出だ。現在、自宅近くの墓地で眠る兄に、週に1度は線香を上げ、妻が花を供えている。

 45年5月になって、飼っていた馬の餌の草刈りに、石體(せきたい)神社奥の山へ行った。空襲警報と同時に国分の方角を見ると、米軍の飛行機5、6機が北側の山手から降下しながら海軍航空隊第1国分基地(現在の陸上自衛隊国分駐屯地)に機銃掃射するところだった。初めて見た敵機は翼に白い星のマークがあるグラマンだった。遠かったためか煙は見えず音も聞こえず、不気味だった。

 6月のことだったか、農家から頼まれ、学校から4、5キロ離れた畑へ草取りの勤労奉仕に行った。隣の山を見ると一面、松の木が高さ1メートルくらいで切りそろえてある。友人に聞くと、松の間に探照灯が設置されているとのことだった。隼人でもいよいよ戦争が始まるのでは、と恐ろしくなったことを覚えている。

 戦地に行くために訓練する「海軍少年通信学校」に2次試験まで合格したところで終戦を迎えた。脱力感でいっぱいだったが、結果的に両親をさらに悲しませることがなくて、今はよかったと思う。日本は多くの犠牲者を出したのに、何のために戦ったのかいまだに分からない。二度と戦争をしてはいけない。地元の子どもたちには戦争の恐ろしさ、肉親を亡くしたつらさ、当時の様子をしっかりと伝えていきたい。

(2012年8月3日付紙面掲載)

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