高射砲部隊は関東軍の寄り合いだった。8月9日、ソ連軍侵攻。北朝鮮をさまよった。9月、丸腰同然で降伏、収容所に。逃亡者は木にくくられ、射殺された〈証言 語り継ぐ戦争〉

2020/09/08 17:30
強制抑留を慰労する総理大臣表彰状を手にする池田清治さん=鹿児島市紫原2丁目
強制抑留を慰労する総理大臣表彰状を手にする池田清治さん=鹿児島市紫原2丁目
 ■池田 清治さん(95)鹿児島市紫原2丁目
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月9日朝、ソ連軍が突如参戦し、北朝鮮・羅津の野戦高射砲第85大隊駐屯地を戦闘機数機で急襲した。機銃掃射の波状攻撃は午前中で終わったが、射程7千メートルの高射砲では、低空を飛び交う機体になすすべなく、13人が戦死した。遺体を火葬後、私の部隊は駐屯地を離れ、北朝鮮の各地をさまようようになった。

 私は西桜島村(現・桜島小池町)の桜洲尋常高等小学校を卒業後、満州国へ渡った。40年に満州電信電話に入社。奉天の中央電報局で働いていた19歳のときに召集令状が届き、44年10月、満州国鞍山の高射砲部隊へ入隊した。

 翌45年3月、羅津へ移動。第1小隊第6分隊員としてB29米爆撃機の防空に当たった。高射砲の射程のはるか上空1万メートルを飛ぶB29に届かなかった。

 高射砲部隊(約900人)は、満州からかき集めた関東軍の寄り合いだった。上官は「団結心を育てたい」とい隊歌を募った。作詞して応募すると何と採用された。幼少期から本好きで、自由詩を会社機関紙に度々投稿していた経験が生きた。これを機に、第1中隊長の北村孝次中尉が何かと目をかけてくれるようになった。

 8月9日のソ連軍侵攻で痛手を負った私の部隊は、ソ連国境近くの羅津を離れ、清津へ向けて南下した。だが、先回りするソ連軍と17日に遭遇し、輸城川をはさんで銃撃戦となった。

 機関銃掃射に対し、こちらは数少ない小銃で応戦。劣勢は明らかだった。双眼鏡で相手の動きをうかがった北村中尉が真っ先にやられた。右肩と右腹に被弾した中尉は「天皇陛下バンザイ」と2度叫び、息絶えた。25歳だった。

 私を含む兵3人は、地に伏せた姿勢で中尉の遺体を引きずり後退を試みた。だが弾丸の雨が激しさを増す。草むらに置き去りにし、逃げるしかなかった。

 「日本は戦争に負けた」との情報もあったが、誰も信じなかった。小銃を所持する兵は少なく、多くは帯刀しただけで丸腰同然。最後は「満州へ帰ろう」との号令に従い、9月に白岩でソ連軍に降伏した。

 私たちは咸鏡北道(ハムギョンプクト)の古茂山(コムサン)収容所に入れられた。3千人規模の施設だったが、長屋は既にいっぱい。やむなく壕(ごう)を掘って屋根を張り、むしろを敷いた粗末な部屋で暮らした。

 捕虜は近くのセメント鉱山で鉱石を掘り、小さく砕く労役を課せられた。気温がマイナス25度以下になると作業をさせない決まりがあって、「下がれ、下がれ」と願ったことを覚えている。

 ソ連兵の乱暴や横暴はひどかった。逃亡者2人を木にくくり、捕虜全員を集合させ、見せしめるように射殺した。万年筆や腕時計を奪われまいと抵抗し殺された人もいた。台風で壊れた塀を補修していたら、作業の音に「捕虜が逃亡を図っている」と言いがかりを付けて銃殺したこともあった。

 食事も悲惨だった。コップ1杯の大豆かコーリャンしか与えられず、朝は汁を飲み、夜は残りかすを食べた。労役時は、大豆かすを丸めたような馬のえさでしのいだ。飢えや寒さで死人が相当数出た。古茂山での抑留は8カ月におよんだ。

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