太平洋戦争末期の硫黄島について証言する西進次郎さん=鹿児島市宇宿3丁目
〈元学徒兵の回顧録①〉
太平洋戦争末期、激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)では、鹿児島の歩兵第145連隊など、日米合わせて3万人近くの将兵が命を落とした。終戦から75年たち、当時の硫黄島を知る人はごくわずか。米軍上陸直前の約40日間、現地に派遣された元陸軍の学徒兵、西進次郎さん(97)=鹿児島市宇宿3丁目=の記憶を基に激戦前夜の島をたどる。
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中央大学在学中の1943(昭和18)年12月に動員された。千葉県印旛沼近くの陸軍飛行第23戦隊で戦闘機の武装を担当する整備員だった44年11月末、戦隊の一部に突然、「硫黄島守備隊の救援に出動せよ」と命令が出た。
7月にサイパンが陥落し、硫黄島も厳しい戦況にあることは広く知られていた。天候不良で出発が1日延期となり、上官から「いずれ死ぬ身。きょう一日遊んでこい」と送り出され、東京にいた姉夫婦の家を訪ねた。行き先を告げると姉は泣き通し。戦地に行く方が慰めるのに必死だった。
鹿児島の母が送ってくれた千人針を島に持参した。今も自宅に保管してあり、砲弾の破片が当たって穴が開いている。「死線」を越える願掛けの5銭と、「苦戦」を免れるという10銭が縫い付けてあり、まさにお守りとなってくれた。
命令から2日後、先発組で整備員約20人が重爆撃機4機に分乗して向かった。小笠原諸島を通過後、低空飛行で南下。後部座席の航法士が小さな島を指し、「あれが硫黄島だ」と教えた時は、開いた口がふさがらなかった。こんなちっぽけな島が日本の命運を握っているのかと。
着陸前、島の全貌を頭にたたき込もうと、目を皿にして見回すと、あちこちが敵の爆撃で穴だらけ。飛行場近くには、多くの飛行機の残骸が、ほうきで掃き集めたかのように数カ所に塊となっていた。無事な戦闘機は4、5機だった。木製の頼りない桟橋の近くには、沈められた軍艦の一部が突き出ていた。
硫黄島は完全に死相を呈しており、「玉砕」の2文字が頭をよぎった。生きた心地がせず、真っ青になっていた。出発前は戦況が不利だと分かっていても、日本が負けるはずないと信じ、意気揚々だった。ここで命を落とすのだろうと思うと気がめいった。
重爆撃機が発着する千鳥飛行場に着いた後、トラックで戦闘機用の元山飛行場へ移動。共同作戦に臨む海軍の人たちが迎えてくれ、「頑張ろう」と握手を交わした。若い兵士や下士官の屈託のない笑顔を見て生き返る気分だった。彼らに敗北感はみじんもなかった。
【硫黄島】東京の南約1250キロにあり、面積は約23平方キロ。太平洋戦争では本土防衛の最前線となり、1944年に島民は強制疎開となった。45年2月19日に米軍が上陸。旧日本軍は総延長18キロに及ぶ地下壕(ごう)を張り巡らせ、短期間で攻略できるとの米側の予想を覆して1カ月超の激戦が続いた。米軍の火炎放射や注水で壕深部に追い込まれるなどした日本軍約2万1900人が死亡。うち、鹿児島の歩兵第145連隊など県関係者は約2200人に上るとされる。米軍も約7000人が亡くなった。現在は、西之表市馬毛島が移転候補地の米軍空母艦載機陸上離着陸訓練(FCLP)が実施されている。