戦争に翻弄(ほんろう)された半生を語る濱田トメ子さん
■濱田トメ子さん(77)霧島市国分広瀬1丁目―5回続きの①
真珠湾攻撃から二年後の一九四三(昭和十八)年、蒲生町上久徳の実家に近い蒲生高等実業女学校(二年制、蒲生農林学校に翌年改組)に入学した。一年の時は授業もあったが、二年になると奉仕作業ばかり。クワやカマを持って登校した。
卒業を控えた四五年、
満州の総務庁(満州国の行政機関)の仕事があると学校から話があった。満州では給与も日本の倍はあって、戦争の心配もない。そう聞かされて同級生三人と一緒に行こう、と決めた。
当時十六歳。このまま卒業しても縫製工場とか開墾とかに徴用される。今振り返ると愚かだったが、まるで満州へ遠足に行くような気持ちだった。親に内証で面接試験を受けて、「受かったんだから」と説得した。旅費や支度金は家に事前に送られてきた。
二月下旬、木炭の省営バス(鉄道省運営のバス)で蒲生を出発した。心配してバスを追いかけた母の姿が今も忘れられない。帖佐に着いて鉄道で鹿児島へ。鹿児島から下関までは引率の男性がいた。下関の旅館に四、五泊したが、空襲にたびたび襲われ、大きな防空壕(ごう)に避難した。蒲生は一度も空襲を受けたことがなかったから怖かった。
貨物船のような船に乗り込んで下関から釜山へ。前の船が魚雷でやられたらしく、満員の船客は皆、救命胴衣を着けさせられた。釜山からすぐ列車に乗り、奉天(現瀋陽)経由で新京(現長春)に到着した。大陸は広かった。四、五日はかかった気がする。もう三月になっていた。
新京は立派な建物が並び、総務庁の入った国務院の前には関東軍司令部があった。私は会計部署に回され、他の同級生三人は人事など別の部署に配置された。
国務院近くに寮があり、私たちは「杏花寮(きょうかりょう)」に入った。一緒に入った女の子のなかにはお金持ちの子もいて、内地から早速贈り物がいっぱい届いていた。舎監は鹿児島出身の五十代ほどの女性で厳しかった。朝は「海ゆかば」を歌わされた。
三月の満州はまだ寒く、寮の二重の窓ガラスには霜がいっぱい付いた。寂しかった。なんでこんな所まで来たのか、と初めて後悔した。
■日本の渡満政策
政府は開拓団のほか、青少年義勇軍、大陸花嫁募集など満州への移民政策を推し進めた。旧制中学や高等女学校の生徒らは1945(昭和20)年春の卒業後も勤労動員される付設課程が施行されたが、外地で就職する生徒は除外した。敗戦が濃くなった同年3月、鹿児島市では青少年義勇軍の壮行式も行われている。
(2006年3月21日付紙面掲載)