防空監視隊本部での体験を語る島名富久子さん
■島名富久子さん(85)鹿児島市池之上町
「爆音情報。北西に大型機、爆音南西にあり」―。私は電話から聞こえる言葉を瞬時に書き留めた。
一九四四(昭和十九)年ごろだったろうか、防空監視隊本部員として徴用された。阿久根、長島など県内数十カ所にあった各監視哨(しょう)から寄せられる機体情報や爆音情報を情報紙に書き込み、四五連隊や六師団本部、陸軍司令部に一刻も早く電話で知らせることが役目だった。
鹿児島市山下町の県庁一階に置かれた本部室の机には電話が並んでいた。部員は女性だけ。百人以上はいただろうか。いつ飛び込むか分からない知らせに備えるため、二十四時間態勢で交代で勤務した。情報が途切れなく入り、休む間がないこともしばしば。出勤は五日置きだったが手伝いが必要だと判断したときは、夜中でも職場に走った。常に死を覚悟し、仲間たちと「ここで何かあっても下手な死に方はしない。情報用紙を握りしめ敢然と死のう」と誓い合っていたので、恐怖心はなかった。
度重なる空襲で街も変わり果てた四五(昭和二十)年七月末のこと、吉松町(現湧水町)に疎開していた母が荷物を運ぼうと、下竜尾町の実家へ戻ってきた。私も昼間に抜け出し荷造りを手伝っていた。突然、坂元町方向からB29が向かってくるのが見え、母と裏の畑に掘った防空壕(ごう)へなだれ込んだ。
爆音が去り、壕からはい出ると今までそこにあった自宅も、周囲の家も、爆風で飛ばされ何もなかった。辺りでは逃げ遅れた子どもたちが死んでいた。
母は疎開先に戻った。私は監視隊の仕事があったので市内に残り、城山の友人宅に身を寄せた。いつだったか、通っていた県庁の本部室も使えなくなったため、軍の防空壕に電話を移し任務を続けたように記憶している。
終戦を伝えるラジオ放送は勤務中に聞いた。米兵に襲われるといううわさが流れ、仲間と一緒に城山町の防空壕に逃げた。全員が「残念だ、残念だ」と抱き合って泣いたことを思い出す。
(2006年4月14日掲載)