父親の遺品の鉄かぶとを見つめながら、当時の思い出を語る久保田剛さん=鹿児島市皷川町
■久保田剛さん(76)鹿児島市皷川町
1945年は鹿児島市に空襲が相次いだが、自宅のある皷川町が襲われた7月31日が最も印象深い。当時は旧制中学の鹿児島市立中学校(現在の玉龍高校)の3年生。土木技師の父親は沖縄に単身赴任中で、兄と2人で、母親と弟を守らなければならない立場だった。
空襲の影響か、近所一帯は停電が続いていた。しかし31日の午前中、家のラジオが突然鳴り出し、「大牟田市(福岡県)上空から南の方に敵機編隊が向かっている」と伝えた。鹿児島市が名指しされたわけではなかったが、胸騒ぎがし、すぐに逃げる準備を始めた。
近くの山の中腹で落ち合うことを約束し、母と弟を先に逃がした。その後、食糧をかき集め、七輪で沸かした紅茶入りのやかんを手に、兄と2人で必死に逃げた。空襲はその直後始まった。爆発音などは記憶にないが、爆風を感じたことは覚えている。
敵機が去った後、高台から見下ろすと町内が一変していた。幾つも開いた直径10メートル大の穴。なぎ倒された大木。自宅近くの大きな屋敷もなくなっていた。やがて清水町の方向に炎と煙が見え、徐々に春日町から大竜町、そして皷川町にも向かってきた。炎は隣の家まで迫った。わが家に倒れてこようとする火の付いた柱を、兄と竹ざおなどを使い何とか反対側に押しやり、壁の一部は焦げたものの延焼は免れた。
近くを見て回ると、市立中の門の近くで男性が息絶えていた。口から内臓が見える無残な姿だったが、恐怖は感じなかった。それまでの空襲の後にも死体を何体も見ていた。死が身近にありすぎて、感覚がまひしていたのかもしれない。
一家で母親の実家のある蒲生町に疎開して父親を待つうち、終戦を迎えた。父親が沖縄本島南部で6月中旬、砲弾にやられて死んだと知らされたのは、翌年の夏ごろだった。遺品は鉄かぶとと壊れた万年筆だけ。どちらも大切に保管しているが、つらいのであまり見ることはない。
(2006年5月13日付紙面掲載)