長女・望都子(もとこ)ちゃんの写真を手にする山内笑子さん=出水市西出水町
■山内笑子さん(85)出水市西出水町-2回続きの①
1945(昭和20)年8月8日夜、三江省鶴岡という街で北満から国境を破ってソ連軍が侵入してきたので集合しろ、と知らせがあった。大慌てで荷物をリュックに詰めて1歳8カ月の長女を背負って宿舎を出た。夫らは別の場所に集合。私たちは鶴岡駅から無蓋(むがい)貨車(屋根のない貨車)で出発した。
走る貨車で用を足すときは床板をはずして行うので女性はしづらい。次第に飲み物や食べ物もなくなり、子どもが泣くのと何日も降り続く雨で一時的に精神に障害が出る人もいた。食料補給はなく、ひもじい日々が続き、ハルビンなど通過する街は燃えていた。列車は予告なしに走っては止まり、走っては止まりする。停車中に青竜刀を持った中国人による略奪も。そんな中、飢えなどで子どもが相次いで死亡。日本兵らしい人から死者は川にさしかかったら投げ捨てろ、との命令があった。修羅場だった。
1カ月足らず走ってスイフン河に到着。日本軍飛行場跡の格納庫に入れられた。一つの格納庫に1000人以上。1人分の広さは畳3分の1ほどで足を曲げて寝なければならなかった。水道は格納庫に1本。2、3時間並ばないと水がくめない。割り込みでけんかもあった。ここではコウリャンのにぎりめし一日2個が配給された。かゆにして娘に食べさせたが少ししか食べない。衰弱していた。
9月17日、突然の移動命令。余命いくばくもない娘のため、1枚の訪問着を月餅(げっぺい)2個とジャガイモ3個に交換した。無蓋貨車の中で娘に月餅を食べさせたが手に握ったまま。苦しかったのでしょう、力を込めた指の間から月餅の粉がぽろぽろと落ちた。娘を見守って一夜明け、水を飲まそうとくみに行くと汚水だった。仕方なく缶にすくい口に流すと、ごくっと一口飲んで息を引き取った。9月18日だった。今でも月餅は見たくもない。汽車は新京へ向かって南下。その間も死者は増え続けた。
突然無蓋貨車が止まり、線路の脇に娘の死体を埋めることになった。手放したくない。しかし年配の婦人から「ずっと抱いているわけにはいかない。埋めてあげたら」と諭されて寝かせようとした。そのとき汽車のピーと発車を知らせるけたたましい警笛。とっさに子どもを抱えようとした。そのとき「ダメだ。子どもを連れて行くならお前を連れて行かないぞ。子供を捨てろ」。厳しい怒声に圧倒され、仕方なく涙をのんで子供を手放し引きずられるようにして汽車に乗った。そのときが人生で最もきつかった。生涯忘れられない。
(2006年5月14日付紙面掲載)