「引き揚げ列車から見た子供たちの死体が忘れられない」と話す谷元太一さん
■谷元太一さん(78)志布志市志布志町安楽
松山(当時松山村)の尾野見尋常高等小学校高等科二年のとき、卒業を目前にして、
満蒙開拓青少年義勇軍に入ることになった。当時十五歳。日ごろから学校の教室の後ろには、義勇軍を褒めたたえるポスターが張られていた。志願したわけではないが、かといって行けと言われて拒否できる雰囲気でもなかった。
日本で唯一の訓練所だった茨城県の内原訓練所で基礎訓練を終え、満州へ出発したのは一九四三(昭和十八)年九月。汽車で博多港まで行き、海を渡り韓国の釜山へ。そこから、日本とは比べものにならないほどの大きな汽車に乗り、満州の大地に初めて足を踏み入れた。
鹿児島出身者の中隊が入った現地訓練所は、旧ソ連との国境に近い、満州でも北に位置する北安省慶安県鉄驪(てつれい)。一面は真っ白い銀世界だったが、木々もなく荒涼とした場所だった。
酷寒の地の兵舎は、土壁に、乾燥干し草の屋根。扉についているノブには常に布が巻かれていた。鉄の部分に直接さわろうものなら、手が張り付いて離れなくなる。
冬は水も出ず、外の雪で顔を洗う。食事といえば、大豆飯やトウモロコシ団子ばかりで、食べ盛りの私たちにはつらかった。時折、近くの中国人の集落をこっそり訪れては、服や時計などを売り払い、食料を手に入れた。
銃の手入れや掃除、訓練に明け暮れる毎日は、現地のラジオから流れてきた終戦の知らせで、突然終わった。間をおかず、訓練所に数人のソ連兵が姿をあらわした。訓練所の外に長蛇の馬車の列が見え、武装解除を受ける私たちの横を、中国人が倉庫の食料を次々に運び出しては、馬車に積んで持ち去っていった。
その後待っていたのは、訓練所の南にある西安炭鉱での労働。強制連行ではなかったが、一文無しとあっては働かざるをえない。毎日の食事は、すり鉢に人数分入ったコーリャンを、唯一の持ち物であるスプーンですくい、岩塩をおかずに食べるだけ。弱っていく身体に炭鉱の固い土はこたえた。毎日、バタバタと仲間たちが死んでいった。
一年が過ぎ、ようやく引き揚げの汽車に乗ることができた。途中、人家も見当たらない地にポツリと立つ駅で、あちこちに子供の死体が転がっていた。
同じように引き揚げてきた日本人の子供たちが、飢えや病気で亡くなり、親たちは泣く泣く死体を置いていかざるをえなかったのだ。残酷な光景だが、何もできなかった。頭に浮かんだのは、学校の教室の後ろにあった、あの、ポスターだった。
(2006年5月28日付紙面掲載)