万世飛行場に入ったのは17歳2カ月のとき。いつ出撃してもいいように毎日訓練した。雨の降らない日は、甑島、硫黄島の上空を回って帰る。飛行機は貴重品。連合軍の空襲から守るため、訓練が終わると林に飛行機を隠し、飛行場にはベニヤの偽装機を置いていた〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/10/24 10:00
慰霊のために彫った観音像を抱く上野辰熊さん
慰霊のために彫った観音像を抱く上野辰熊さん
■上野辰熊さん(78)埼玉県新座市

 山口県の生まれだが、父親が鉄道関係の仕事をしており、七歳で満州に引っ越した。当時パイロットは花形で、私も飛行機乗りにあこがれ、十五歳の一九四三(昭和十八)年四月、北京市で陸軍少年飛行兵を受験。九月末に三日がかりで滋賀県大津市の大津陸軍少年飛行兵学校へ行った。

 このころは航空兵力の消耗が激しく、大量の兵力養成を急いでいた軍は、少年飛行兵にも乙種(速成)を作っていた。私は十月に福岡県の大刀洗飛行学校の生徒になり、その後平壌で実用機錬成教育を修了した。

 飛行第六十六戦隊に転属の拝命で万世飛行場に入ったのは十七歳二カ月の四五年五月二十九日。第一線の隊員では最年少だった。

 万世ではいつ出撃してもいいように毎日訓練した。六十六戦隊の飛行機には、パイロットのほかに射手が乗る。これに爆弾と五千発の弾を積むのだから飛行機はかなり重くなる。しかも有視界飛行。雨の降らない日は毎日、爆弾が爆発をしないよう信管を抜いて甑島、硫黄島の上空を回って飛行場に帰る訓練をした。

 飛行機は貴重品。連合軍の空襲から守るため、万世や加世田には飛行機の誘導路があって、訓練が終わると遠くの林に飛行機を隠し、飛行場にはベニヤの偽装機を置いていた。訓練が終わる夕方には近くの動員学徒の学生たちが飛行機を押して林に持っていき、朝になるとまた押して飛行場に持ってきていた。

 私が万世飛行場に来る前、基地に来ていた動員学徒の女学生らが爆撃で亡くなったと聞いた。先輩の話では、肉片が松の木に飛び散っていたということだったから、直撃弾を受けたのだろう。万世で亡くなったのは民間人もかなりいる。

 出撃命令がないまま沖縄戦が終わり、大刀洗飛行場に移った。このころになると、飛行機も不足しており、三個中隊のうち、第一、第二中隊は改編され「隼」になった。本土決戦前に大刀洗から南西諸島に出撃するという計画で、何度も非常呼集がかかったが、その度に解散するということがあった。

 八月十四日の真夜中にもたたき起こされた。そのときは「私物をまとめろ」という命令もあり、「いよいよ出撃だ」と思った。だが、出撃の日に終戦。命令が一日早ければ、私も帰らぬ人となっていた。万世でも六月は雨が多く、出撃できない日が多かった。そうしたわずかな違いで慰霊する側になった。

 戦後木工の仕事に携わり、七十四歳の誕生日のころに趣味として木彫りを始めた。戦友の慰霊にと観音像を彫って戦友や遺族に差し上げている。今年も万世特攻慰霊祭までに四体彫り、合わせて四十五体になった。

(2006年4月19日付紙面掲載)

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