鹿児島大空襲の日、寄宿舎に焼夷弾が直撃し防空壕へ逃げ込んだ。遅れて入ってきた女子生徒は重傷。手は焼けただれ、目もはれて開かない。先生たちに後を頼み別れた。戦後54年が経過した1999年、彼女のその後を知った〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/10/31 10:00
体験をできるだけ多くの人に伝えたいと話す別府典子さん
体験をできるだけ多くの人に伝えたいと話す別府典子さん
■別府典子さん(77)薩摩川内市祁答院町藺牟田

 鹿児島市上之園町にあった鹿児島女子興業学校(現鹿児島市立鹿児島女子高校)の寄宿舎に二つ年下の妹と一緒に入っていた。鹿児島大空襲の一九四五(昭和二十)年六月十七日は雨模様。「今日はアメリカさんも来ないよ。ゆっくり休めるかも」と床に入ってまもなく、「ドカン」という音で目が覚めた。焼夷(しょうい)弾が寄宿舎を直撃していた。

 校庭の大きな桜の木の下にあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。しばらくしてもう一人入ってきた。暗くて誰だか分からず、「あなただれ?」と尋ねた。同じ寄宿舎の女子生徒だった。相当重傷の様子だったので、壕の奥に移ってもらった。粉雪のように舞う火の粉がどんどん中に入ってきた。

 夜が白み始めたころ、女子生徒の深刻な容体を目の当たりにした。手は焼けただれ、目もはれて開かない。三つ編みの黒髪は縮れていた。「水が飲みたい」と言うので、防火水槽まで走った。いつも満杯のはずの水槽はカラカラ。一滴もすくえなかった。

 「ごめんね。水がなかった」。女子生徒は「痛い」という言葉さえ発せなくなっていた。そのうち、自分も目が開けられなくなった。しばらくしてやってきた先生たちに、女子生徒のことを頼んだ。「先生、軟こうか何かありませんか」。軟こうはあったが、とてもそれで間に合うような状況ではなかった。

 田上付近まで逃げていたという妹と合流し、西鹿児島駅から列車で祁答院に向かった。目が見えないので、妹の腕をつかんで家まで帰った。

 女子生徒のその後を知ったのは、戦後五十四年が経過した一九九九年。同窓会「帰厚会」の活動で、戦争犠牲者を調査したのがきっかけだった。女子生徒は、別れてまもなく死亡していた。一緒に寄宿舎にいた女子生徒の姉は即死だったという。両親が、女子生徒の亡骸(なきがら)を毛布にくるみ、竹ざおで担いで帰られたという話を聞いたときは、涙が止まらなかった。

 寄宿舎の生徒は防火要員として学校に残り、犠牲になった。砂袋を準備したり、防火水槽に水を張ったりして備えていたが、空襲に対しては、何の役にも立たないことをやっていたと今思う。

 少しでも犠牲者の慰めになれば、との思いで、学校があった共研公園内に慰霊碑建立を働きかけた。二〇〇四年六月に除幕式を迎えられ、本当にありがたかった。六月十七日を迎えるたびに、今年も元気でいられたね、と妹と話す。体験者としてできるだけ多くの人に戦争の悲惨さを伝えていきたいと思う。

(2006年4月20日付紙面掲載)

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