轟音とともにグラマン2機が来襲、周囲は火の海になった。実家の寺の前では、男性が全身火だるまで仁王立ち。父が燃える衣服をはぎ取るときに一緒に皮膚がむけ、赤い肉が露出した。私は絶句し心の中で「いやだ、いやだ」と叫んだ。寺の本堂には、壁と柱に弾痕が残る〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/11/14 10:00
柱を貫通した機関銃の弾痕を指さす三木正英住職
柱を貫通した機関銃の弾痕を指さす三木正英住職
■三木正英さん(74)薩摩川内市西方町

 実家の潮見寺(ちょうけんじ)のすぐそばは砂浜が続く西方海岸。米軍上陸の可能性を考えていたのだろう、一九四五年七月には兵隊約五十人が駐屯、寺にも将校が住み込んでいた。兵隊らしい仕事はなく、近くの湯田口(薩摩川内市湯田町)でやぶを払い、塩田開拓をしていた。

 七月中旬から空襲が頻発した。二十九日は東郷町が空襲にあった。東郷と西方は、どちらかが火事になると、なぜか翌日もう一方が火事になる“火事きょうだい”とのうわさがあり、「明日は西方で空襲があるかな」と思った。

 不思議なことにこのころ、兵隊たちは姿を消した。しょうゆだるや馬も残したままだ。今思えば、事前に空襲の情報をつかんでいたのかもしれない。

 三十日早朝、言葉では説明できないが、空襲がありそうだとなんとなく予感に襲われ、境内の防空壕(ごう)に家族で避難していた。午前八時二十分、何の警報もなく突然、北東の山陰からグラマン二機が爆音とともに来襲。赤みがかった操縦士の顔も見えた。

 重油をまき散らした後、焼夷(しょうい)弾数発を投下、機銃掃射を浴びせた。南風にあおられ、西方中心部の上町地区は一気に火の海になった。海を泳ぐ者、松林に駆け込む者など住民は逃げまどった。

 寺の前では男性が全身火だるまで仁王立ちしていた。髪、まゆも燃え、顔の識別はできなかった。ただぼうぜんとした表情だったことを覚えている。

 父は近くに住んでいた男性だと分かったらしく、名前を呼びながら燃える衣服をはぎ取りにかかった。衣服と一緒に皮膚がむけ、赤い肉が露出した。私は絶句し心の中で「いやだ、いやだ」と叫んだ。父は指にやけどを負いながら、戸板に男性をのせ、公園に運んだが、その日の夜亡くなってしまった。

 ほかに三人の遺体が町の焼け跡から見つかった。残り火は一週間燃え続け、鼻にツンとくる異臭が集落を覆った。本堂も機銃掃射され、今でも白土壁と柱に弾痕が残っている。

 恒久平和を祈念し、地域の子どもたちに戦争の悲惨さを語っている。戦争を単に植民地獲得競争だと片づけず、人殺しであることを伝えている。壁と柱の弾痕も見せる。私が生きているうちは、補修せず残すつもりだ。

(2006年4月26日付紙面掲載)

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