木原信雄さん
■木原信雄さん(80)旧川辺町神殿
十七歳だった一九四二(昭和十七)年九月、あこがれの海軍の衛生兵として、長崎県の佐世保海兵団に入った。
佐世保海軍病院や雲仙海軍病舎などを経て、四四年八月、鹿屋市の鹿屋航空基地に転勤した。長崎にいたころは「どこで戦争をやっているのだろう」という感じだったが、鹿屋は違った。
台湾沖航空戦に向かう戦闘機の四隅に竹を立て、しめ縄を張り、菊水の鉢巻きをした飛行兵は別れの杯。二十歳くらいの若者ばかりだった。一機、また一機と飛び立って編隊を組み、見送る私たちに別れの翼を振った。ほとんど帰ってくることはなかった。
帰還しても飛行機は無残だった。スコールのような敵の弾で無数の穴が開き、操縦席は血で真っ赤。鹿屋市の高須沖に不時着し、水死した飛行兵三人の通夜を一人でしたこともあった。
四五年になると戦況は悪化、米軍機が鹿屋上空を飛び、出撃の見送りもできなかった。そして沖縄総攻撃。滑走路の周りを全国から集められた戦闘機が埋め尽くし、翼がぶつかるほどだった。
夜間の出撃では視界がきくよう、飛行兵は「暗視ホルモン」を注射された。出撃前の若者に言葉はなく、好きなたばこも口にせず、うつむくばかり。ある士官は一言、「早くいきたい」。慰めようもない決別。名前でも聞いていたら、遺品でも預かっていたらと思うが、あのときは私もいつ死ぬか分からぬ身だった。
鹿屋基地は三月十八日の真夜中、空襲を受けた。航空廠(しょう)は火の海と化し、味方の飛行機も火を噴いた。司令部の地下壕(ごう)に逃げ、夜が明けて破壊された病舎に向かうと、グラマンが機銃掃射。たこつぼのような小さな防空壕に飛び込み、命拾いしたものの、爆音と爆風に震えが止まらなかった。上谷町の防空壕内では棺(ひつぎ)が重ねられた。
闇(やみ)をぬり 星にとけつつ 攻撃機
沖縄総攻撃のとき作った句。帰ってこれないのに偽装してまで攻撃に向かう飛行兵は哀れだった。私たちに青春はなかった。戦争は二度と繰り返してはいけない。
(2006年5月5日付紙面掲載)