出征前の男子寮学生からもらった“ラブレター”を手にする松元ヨウ子さん。当時の心境を込めて作詞作曲した歌の譜面と歌詞がつづられている
■松元ヨウ子さん(78)鹿児島市東俣町
六十年も前なのに、まるで昨日起きたことのように鮮明に覚えている。一九四五年六月十七日の夜のことだ。当時十七歳、鹿児島青年師範学校の二年生だった私は、学校の女子寮「清明寮」に住んで寮長を務めていた。寮は今の鹿児島市役所伊敷支所(同市伊敷五丁目)のあたりにあって、三十人ほどがいたと思う。
午後九時の消灯後。赤痢で四〇度の熱を出して病室にいた後輩の寮生を舎監の斉藤マサ先生と看病して自分の部屋に戻り、布団に足を突っ込んだ途端だった。「ドカーン」というごう音とともに、一気に外が明るくなった。「爆弾投下だ」。そう思い、跳び起きた。鐘を鳴らして「全員集合」と大声で叫び、斉藤先生と一緒に全員裏山の防空壕(ごう)へ避難するよう室長に指示。自分は防空ずきんの上からバケツで水をかぶり、後輩のいる病室へと走った。
病室は火の海だった。後輩の名前を呼びながら布団をめくると、彼女はすでに避難していた。だがホッとしている間はない。とっさに思った。「倉庫にはまだ火がついていない、お米だ!」。米だったか玄米だったか、二俵を玄関脇の退避壕に運び込んだ。そのときはもう、寮も、その下にあった伊敷小学校の校舎も燃え上がっていた。
夜が明けるまで、そこで一人過ごした。外に出ると、くすぶる煙で空はかすんでいた。あたりはすっかり焼け焦げて何もなく、人影も見当たらない。門横にあったヒマラヤスギの前に、一坪分くらいの大きな穴があるだけだった。それは後に、数十発の油脂焼夷(い)弾が束ねてあった円盤だったことが分かった。
寮生は全員無事だった。会計責任者はきちんと会計簿や書類を持ち出していた。米を運んだ私も、高熱を出して何も口にしていなかったはずの後輩も、人間いざとなると肝が据わってどこからか力がわくから不思議である。その後は倉庫から運んだ米を一人一人に分けて実家へと帰し、最後まで見届けた後、自分も母が疎開している伊集院へと歩いて向かった。
着るものはもちろん食料もなく、団子汁にサツマイモのツルや葉を入れたり、イナゴを捕まえてはつくだ煮にしていた。平和で物に満ち足りたこの今の世を再び戦乱の世に戻してはならないと、切に思う。
(2006年4月3日付紙面掲載)