空襲後の鹿児島市街地の様子について瀬戸口博さんは「ちんがらっだった」と語る
■瀬戸口博さん(70)旧川辺町両添(現・南九州市)
空襲が頻繁になった一九四五(昭和二十)年五月だったと思う。
印鑑屋を営んでいた家は鹿児島市役所の隣にあり、私は国民学校の四年生。空襲警報で私を含むきょうだい四人は母に連れられ、城山の北側にある岩崎谷のトンネル真上のがけに掘られた横穴防空壕(ごう)に避難していた。
ザーザーッ。雨が降るような音の後、ドカーン、ドカーン。遠くに落ちる爆弾の音だった。
「こっちに来るな。あっちへ行け」。その願いもむなしく、ヒューンと金属音のような嫌な音がした途端、すごい爆発音と地響き。学校の訓練で習った通りに目と耳を手で押さえ、前かがみに伏せると、体がふわーっと宙に浮いた。
防空壕には四、五十人くらいがいた。悲鳴を上げる子どもたちに、外へ人けを知らせないためか、大人が「だまれ」と叫んだ。壕内はパニック状態だった。
爆風で体が浮いたあの感覚は気味悪く、今も覚えている。死が目の前に近づいたようで本当に怖かった。米軍が鉄道を標的にしたと考えると、よくこんな所に避難したもんだとゾーッとする。
壕に風圧で亀裂が入って別の場所に移り、やがて警報解除。自宅への帰り道は、いつ爆破するか分からない時限爆弾の落下場所の周りに縄が張られ、通行止めになっていた。やむなく城山を越え、新照院方向に向かった。
城山の展望台からは、あちこちに火の手が上がる市街地が見えた。城山を下りると、機銃掃射を受けて鉄板に無数の穴が空いた旧伊敷線の電車が焼け焦げていた。わきには正視できない無残なお年寄りの遺体が横たわっていた。
道路の随所に、爆弾が落ちた後に水道管が破裂してできた大きな泥池と、時限爆弾による通行止めがあり、何度も迂回(うかい)しながら地獄絵を見るような思いで歩いた。
運良く家は焼け残ったものの、六月の大空襲で鹿児島駅炎上と同時に消失した、と疎開先の勝目村(現川辺町)で聞いた。家族全員がどうにか死なずに終戦を迎えられたが、人と人の殺し合いとなる戦争はもうごめん。最近の政治は戦争への道を切り開いているようで危惧(きぐ)している。
(2006年6月8日付紙面掲載)