「妹が拉致されてからいっとき夕日を見るのが怖くなった」と話す平野フミ子さん=熊本県八代市
北朝鮮が日本人拉致を認め、被害者5人の帰国につながった初の日朝首脳会談から17日で20年を迎えた。1978年に鹿児島県内で拉致された市川修一さん=当時(23)=と増元るみ子さん=同(24)=は北朝鮮が「死亡」としているが、説明の根拠は極めて不自然で、家族は早期帰国を訴え続けている。
増元さんは53年11月、4人きょうだいの3人目に生まれた。「いるだけで雰囲気を明るくするムードメーカーだった」。3歳離れた姉の平野フミ子さん(72)=熊本県八代市=は話す。市川さんは54年10月、3人きょうだいの末っ子として誕生した。中高の同級生の花牟礼薫さん(67)=鹿屋市輝北=は「真面目で、勉強をコツコツ頑張っていた」と印象を語る。
市川さんと増元さんは78年8月12日、「吹上浜(日置市)に夕日を見に行く」とドライブに出掛けたまま行方不明になった。10年後、政府が拉致の疑いを国会で明言。県警は91年に対策班を設置した。97年に被害者家族会が結成され、家族や支援者から救出の声が強まっていった。
小泉純一郎首相(当時)が訪朝した日朝首脳会談当日、北朝鮮は「5人生存、8人死亡」と伝えた。市川さんは「79年、海水浴中に溺死」、増元さんは「81年、心臓病で死亡」とされた。市川さんは泳ぎが苦手で、増元さんも27歳の若さ。北朝鮮が示した公的書類上の2人の生年月日が間違っていた上、遺品や墓もない。「死亡」は疑わしく、政府や家族は全ての被害者の帰国を求めている。
平野さんは「首脳会談後の最初の4、5年は国民の興奮があった」と述懐する。花牟礼さんは募金や署名活動を活発化させ、同級生らの支援組織を立ち上げた。「署名で日本人を取り返すという思いで取り組んできた」と話す。
2013年には全国の家族と支援者が救出を求める1000万筆超の署名を政府に提出したが、第2、第3の帰国は実現していない。北朝鮮は再調査をたびたび約束したものの、被害者の生存確認につながらないまま、16年に調査の全面中止を表明した。
市川さん、増元さんが拉致されて44年。平野さんは「あまりに長すぎる。こんなに世論が風化するとも思っていなかった」と打ち明ける。しかし諦めてはいない。「非人道的な犯罪を許していいはずがない。私たちは平和な日本にいるけど、妹は拉致された時に地獄と感じたはず。早く癒やしてあげたい」と願う。
「支援する会鹿児島」の代表を務める花牟礼さんは「家族も支援者も高齢化し、一日も早い帰国を実現させないといけない。より多くの人が署名に参加してほしい」と呼びかける。