「ドーンドン」。買い物帰りに聞こえた爆弾の音。米軍機の1機がこっちに飛んでくる。石橋の下に隠れた。生きた心地がしなかった〈証言 語り継ぐ戦争〉

2023/03/06 10:00
空薬きょうを手にする税所セツエさん=出水市本町
空薬きょうを手にする税所セツエさん=出水市本町
■税所セツエさん(73)出水市本町

 一九四五(昭和二十)年三月十八日、出水郡高尾野町野口の自宅に自警団の人たちが空襲があるとのことで集まっていた。知覧や鹿屋が空襲の被害に遭っていたので今度は出水ではないかとの予測だった。

 そのころ兄の仲市=当時(14)=は満州と北朝鮮との国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)沿いの新義州(しんぎしゅう)という街で、日本の企業で働いていた。その日、私は兄に芋あめを送ってあげようと、父新助=同(36)=の使いで野田町の屋地まで買いに行く予定だった。昼すぎまで空襲がなかったので出発した。野口と屋地は直線距離で約六キロ。道の途中には広い田んぼが広がっていた。当時、私は空襲を体験したことがない小学五年の十歳。戦争の本当の怖さなど知らなかった。

 屋地で芋あめを買って、早く兄に送ってあげようなどと思いながら自宅へ向かっていた。自宅まであと約三キロ。荒崎の村を過ぎたとき、飛行機の音が聞こえた。その瞬間「ドーンドン。ドーンドン」と爆弾の音。グラマン機十機ほどが市内を攻撃していた。矢筈岳は中腹に設置された高射砲を狙ったのか、爆弾が落ちてキノコの形の砂ほこりがいくつも上がっていた。そのうち、一機がこちらへ飛んできた。「ダッダッダッダッ」。機銃掃射。一帯は田んぼ。周りに隠れる建物は何もない。とっさに小さな石橋の下に飛び込んだ。機銃の弾が「ボッボッボッ」と音を立てながら地面を走っていく。同時に直径二センチ、長さ十二センチほどの空薬きょうがあられが降るように音を立てて落ちてきた。必死で祈った。ひとりぼっちで生きた心地がしなかった。

 攻撃の合間をぬいながら自宅へ向かう。周辺には空薬きょうが散乱。日本の練習機七機が飛んできたが、撃墜され海に突っ込んだ。出水海軍航空隊の格納庫や飛行機も燃え上がっていた。父が屋地に爆弾が落とされたと聞いて心配し、途中まで迎えに来てくれた。ちなみに練習機乗員一人が助かったと聞いた。戦闘服で岸に泳ぎ着いたという。飛行場では三十―四十人が死んだという。

 その後もB29などが何度も飛来して爆弾を落とした。そのたび、必死で防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。日本軍は高射砲でB29を狙うが射程距離を知っていてか届かない。焼夷(しょうい)弾も落とされ怖かった。漁師の父が網を引くと沈んだ飛行機の残骸で網が切られたり、時には頭蓋骨や手足の骨がかかった。今も忘れられない。

 八月十四日夕方、軍関係の無線局員らしい人が魚を買いに訪れ、「戦争は終わった。これからは破れもんぺなどを着なくてもよい、革靴を履いてキュッキュッと歩ける世の中になる。明日、天皇陛下の放送があるだろう」と話した。私は祖母の所へ行き、「戦争が終了した。日本は負けた」と話すと「日本は負けない。そんなことをいうのはスパイだ」と話したのをおぼえている。その後も食べ物がなくて原始時代みたいな哀れな日が続いた。

(2006年6月9日付紙面掲載)

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