14歳で軍需工場に。「紫電改」の機銃などを作った。戦争が進み、品薄になった接着剤の代わりは米で作ったのりに。「こんな状態で戦えるのか」〈証言 語り継ぐ戦争〉

2023/05/15 10:00
坂元和治さんは、開拓団のころから使っている山鍬を今も大事に持っている=鹿屋市東原町
坂元和治さんは、開拓団のころから使っている山鍬を今も大事に持っている=鹿屋市東原町
■坂元和治さん(76)鹿屋市東原町


 一九二九(昭和四)年、旧牧園町高千穂で八人きょうだいの二男として生まれた。時は軍国主義が台頭するころだった。

 物心ついたころから、木を腰に差し、同級生との遊びは戦争ごっこ。大きくなったら兵隊になり、末は陸軍大臣になることを夢見た。小学校には集団で軍歌を歌いながら登校した。戦争に何の疑問も持たず、子供なりに「戦争は大東亜共栄圏、平和を実現するためにある」と考えていた。

 十四歳のとき、鹿児島市原良町の軍需工場に動員された。一三ミリの機銃など戦闘機「紫電改」の部品を作っていた。戦争が進むにつれ、部品が徐々に少なくなってきた。接着剤がなく、米でのりを作っていた。口にこそ出さないが、「こんな状態で戦えるのか。そう長くは持たないのでは」という認識はみんなに共通していたと思う。

 忘れもしない四五(昭和二十)年六月十七日夜の鹿児島大空襲。焼夷(しょうい)弾が雨のように降り注ぐ中、城山まで必死に逃げた。途中で倒れ、泣き叫ぶ女性や子供が何人もいた。何とかしたくても炎が迫る中、助けるすべもない。今思い返してもたまらない気持ちになる。

 城山に着いたが、防空壕(ごう)はすでに満員。身を隠すのは木の陰しかなかった。爆弾が落ちれば一巻の終わり。落ちないことを夜通し祈った。一夜明けた鹿児島市は、まさしく焼け野原。ただぼうぜんとするしかなかった。あの火の海の中を城山までたどり着けただけでも奇跡に近い。九死に一生を得た夜だった。

 八月十五日、終戦。故郷牧園で地域の人から戦争が終わったことを聞いた。悔しいという感情は沸いてこず、「もう怖い思いをせずにすむ」ということだけだった。

 戦後は、鹿屋に兄がいたこともあり、開拓団に応募。開拓団には復員兵や引き揚げ者の家族約二百五十人がいた。飼料倉庫や養蚕室を家族ごとに仕切り、炊事場と風呂場は共同だった。

 戦争が終わっても食糧難は相変わらず。一町二反歩(一・二ヘクタール)の土地を与えられたといっても、山鍬(ぐわ)一本で朝から晩まで耕す毎日。灌漑(かんがい)設備や肥料もなく、作物が育つ土地にはほど遠かった。主食は草木やサツマイモの葉、茎。カエルやヘビは貴重なタンパク源だった。生活の苦しさで言えば、戦前より戦後のほうだった。表現は悪いが、難民収容所のような毎日が続いた。

 「戦争さえなければ、こんな生活を送らずにすんだだろう」と何度も思った。戦争の悲惨さを身に染みて感じた世代にとって、今の世相はあのころと似通った危うさを感じてならない。

(2006年7月22日付紙面掲載)

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