日常だった沖永良部の空中戦。墜落機に駆け寄ってジェラルミンを切り出し、鍋を作った。特攻機はつぎはぎだらけ…鍋をとる場所もなかった。

2023/09/18 10:00
和泊の空襲を眺めていた高台に立つ大福謙蔵さん。海まで見渡すことができ、沖で特攻機が撃墜されるのも目撃した=和泊町和
和泊の空襲を眺めていた高台に立つ大福謙蔵さん。海まで見渡すことができ、沖で特攻機が撃墜されるのも目撃した=和泊町和
■大福謙蔵さん(74)和泊町和泊

 一九四四(昭和十九)年の六月か七月ごろ、現在の和泊町役場の場所にあった国民学校に登校すると、校舎に兵隊があふれていた。越山に沖永良部島守備隊が陣地を築くということだった。島民も動員され、六年生の自分は越山を囲む戦車壕(ごう)を掘った。

 四五年三月一日。島で本格的な空襲が始まった。午前八時前、中学に進学する学生を乗せて沖で出港を待っていた木造船が攻撃された。実家がある高台の和(わ)という集落から通学中、船からもうもうと立ち上る黒煙をみて怖くなり、急いで家に帰った。それ以後、八月の終戦まで、毎日必ず米軍機が飛んできて、日本の飛行機を待ち構えていた。頭上には敵機がいるのが当たり前だった。

 米軍機は警戒中は攻撃せず、沖縄方面に戻る際に旋回し、バラバラと機銃を撃ってくる。爆撃機も来て二百五十キロ爆弾などをめちゃくちゃに落とした。攻撃されるのは、近くでは和泊中心部が多かったので、和泊を望める高台の和集落から空襲を眺めていた。爆撃があまりに日常的で慣れてしまった。花火でも見るような感覚にすらなった。しかし、カーン、カーンとつんざくような音が向かってくる艦砲射撃の音は本当に恐ろしく、今でも忘れられない。

 学校が空襲で焼けたので、登校はしなくなった。昼間は敵機がいて農作業ができず、薄暗い早朝五時ごろに畑に行った。四月ごろ、サツマイモ畑にいると突然、バリバリという音が響いたので、近くのソテツのやぶに逃げ込んだ。直後、畑に轟(ごう)音。爆弾だと思った。親指で耳をふさぎ、残り四本の指で目を押さえた。体の震えが止まらなかった。

 恐る恐る目を開けると、飛行機が目の前で煙を上げていた。当時は「日本の飛行機が落ちるはずはない」という考え。敵機だと思い逃げた。約百メートル走ると、和集落に住む戦争経験者の前久光さんが飛んできた。「敵を殺してやる」と鎌を手に走っていった。自分は集落に逃げ、後から「飛行機から『友軍です』と言いながら大尉が降りてきた」ことを聞いた。沖永良部島周辺では日米の空中戦が展開されていた。

 飛行機が落ちるとまず、機体のジュラルミンを取りに行くものだった。鋲(びょう)の穴をさけて切り出し、鍋を作った。当たり前のことだった。そのとき落ちたのは液冷エンジンの「飛燕」だったと思う。とても新しい飛行機だった。多くの特攻機はそれとは対照的に、つぎはぎだらけでボロボロ。鍋をとる場所もなかった。

 本土から飛んできた特攻機は、沖永良部島の近くでかなりが撃ち落とされた。海の方で真っ赤に燃えて、真っ逆さまに落ちていく。そしてパァーと水柱が立つ。何度も、何度も見た。

 八月十五日から、敵機の攻撃がなく不思議に思っていた。九月に入ると、学校に集合がかかった。奉安殿の前で校長先生が泣いていた。教育勅語(ちょくご)を読むのかと思ったら、皆で御真影(ごしんえい)と勅語を拝んで最敬礼し“お別れ”した。それらは後で、焼かれたと聞いている。

(2006年9月5日付紙面掲載)

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