アルバムを見ながら思い出を語る東和子さん=霧島市国分松木町
■東 和子さん(94)霧島市国分松木町
8月9日午前11時2分。長崎市に原子爆弾が落とされたときも、長崎県の川棚海軍工廠(こうしょう)の事務所で作業をしていた。天気は覚えていないが、普段と変わらない暑い日だった。山に遮られ海は見えない場所。大村湾の向こうにある長崎市のきのこ雲は見えず、音や光にも気付かなかった。
夕方宿舎に帰り、原爆で負傷した人が担架で次々に運ばれていくのを見た。「長崎に大変な爆弾が落ちたちよ」と聞いた。けが人がどんな様子だったかは怖くて見られなかった。戦後、原爆だったと知り「よく助かったね」と友人と言い合った。
それから6日後の15日午前、「大事なお話がある。宿舎の前に集まれ」と言われ、ラジオの玉音放送を聞いた。天皇陛下の声を聞いたのは初めて。「こんな声だったんだ」と思った。兵士らは泣いていたが、自分たちは「これで家に帰れる」という気持ちが一番。いそいそと荷造りをした。行きは国分高等女学校の先生が引率してくれたものの、帰りは「一人にならないように。みんなで隼人・国分を目指しなさい」と言われただけ。大勢の同級生と川棚駅で汽車に窓から乗り込んだ。
車内は兵士でいっぱい。席に座れず、通路にリュックサックを置いて腰掛けた。窓は開いていたが、人にふさがれて景色は全く見えなかった。鹿児島に入る前のどこかの鉄橋が曲がっていて汽車が進めず下車した。「下を見るな」と言われながら鉄橋を渡った。しばらく行列になって線路伝いに歩き、また汽車に乗った。何日かけて帰ったかは覚えていない。野宿をするときは人家の戸口に数人でまとまり、リュックサックを枕にして眠った。
松木地区の自宅は国分駅から距離があるため、まずは隼人駅前の親戚の家に向かった。いとこの貴美江たちきょうだいが身を寄せていると聞いていた。親戚が「よう帰ってきやった。上がいやんせ」と迎え、カボチャの団子汁を出してくれた。野菜たっぷりで、食べたことがないほどおいしかった。「昼寝をしやんせ」と言われ、足を洗って少し眠ってからいとこの一人と一緒に自宅に戻った。
第一国分基地の周辺はほとんどの家が燃えてしまっていた。空襲で千戸近くが失われたそうだ。基地から少し距離のある実家は幸い残っていたが、焼け出された知らない人が大勢避難していて、家族はいなかった。板戸に消し炭で書いてある伝言を手がかりに母・マサが勤務する牧園の持松小学校に向かいようやく母や弟妹と合流できた。
精華高校(現国分中央高校)で英語を教えていた父・吉助は1942年11月、結核のため42歳で亡くなった。母が教職をしながら家族を支えた。
工場で働いていたのは今の高校1年の年齢。子どもが本当に役に立っていたのか疑問だ。尋常小3年のときに日中戦争に入り、6年からは太平洋戦争。物心ついた頃から「お国のために」という軍国教育だった。天長節や紀元節には校長が奉安殿から教育勅語を取り出して朗読するのを頭を下げて聞いていた時代。好きな勉強を満足にできなかったのが悔しい。
終戦後に教員免許を取り、47年から宮内小と富隈小で教えた。「軍国教育は間違っていた」と教わる講習が何度もあった。授業の内容がガラッと変わり戸惑った。自分の好きな勉強やスポーツに打ち込める今の子どもは幸せだ。戦時は何もかも「兵隊さん」優先。子どもに二度とこんなみじめな思いをさせてはいけないと願いながら教壇に立った。孫やひ孫には平和で穏やかな日常を送ってほしい。
教え子らに頼まれ、これまでに2回、海軍工廠で働いた経験を講演した。聞いた人から感謝の手紙や電話を多くもらった。「人前では話したくない」と断ってきたが、後世に自らの思いを伝えるよい機会になった。戦争のむなしさや愚かさを感じてもらえたらうれしい。
(2024年9月15日付紙面掲載)