「今思えばぞっとする経験もした。生き残ったのは運が良かっただけ」と語る田頭壽雄さん=鹿児島市喜入町
■田頭 壽雄さん(87)鹿児島市喜入前之浜町
二・二六事件が起きた1936(昭和11)年、軍国主義が台頭していく節目の年に、出水・米ノ津の農家の四男として生まれた。
米ノ津国民学校では、登校すると、奉安殿に向かって手が膝の下までくる最敬礼をして、二宮金次郎像にも敬礼。授業中に突然「バクダン!」の号令がかかると、みんな一斉に両手の親指で耳、人さし指で目、薬指で鼻をふさぎ、口は開ける。そんな日常だった。だけど、戦争の実感はなかった。「日本は神国だから負けない。神風が吹く」と本気で信じていた。
出水には海軍飛行場があり、近くの集落までの農道には、空襲時に隠れるための「タコツボ」が点在していた。最初の空襲があったのは45年3月18日だった。飛行場周辺に、おとりの古い飛行機を並べていたが無駄で、壊滅的な被害を受けた。私は隣家の幼なじみと、のんきに“見学”していた。日本軍の訓練と勘違いしていたのだ。母が慌てて抱え上げ防空壕(ごう)に入った。
長島方面の沖に通称「ナナジマ」(七尾島)と呼ばれる無人島がある。この年の3月末から6月にかけ、ナナジマを敵艦に見立てた特攻訓練が行われていた。音もなく急降下して島に突っ込み、ギリギリでごう音を立てて急上昇する姿を、海沿いの土手から何度か目撃した。
7月末、近くの川で釣りをしていると、母の叫び声が聞こえた。空襲だった。走って戻り、家の防空壕に逃げ込んだ。爆撃が終わって外へ出ると、庭木の枝が飛び散り、家の柱や壁など至る所に、爆弾の破片が突き刺さっていた。500メートルほど南の今釜地区からは黒煙と赤い炎が上がり、足の震えが止まらなかった。
火災は広がり、自宅にも火の粉が飛び始めた。父はかやぶきの屋根に上り、下から母がぬれた衣類を投げて消火し、何とか類焼を防いだ。隣の家はすぐ横に爆弾が落ち、友人の母がけがをした。周辺の家が飼っていた牛も深手を負い、処分場に送られた。
後日、爆撃の跡とみられるすり鉢状の穴を仲間たちと数えたら、36カ所に上った。中には人が避難していた防空壕を直撃したものもあった。私たちはただ運が良かっただけだった。
8月6日、広島に原爆が落ちた。当時、ラジオ放送は「新型爆弾」と声高に伝えていた。そして9日に見た光景は忘れもしない。よく晴れた日で、長島の方角の青空に、きのこ雲が「きれいに」見えた。長崎に原爆が落ちたことは後に知ったが、その下の惨状は全く想像できなかった。
終戦の玉音放送は集会場で聞いた。帰ってから父は「敗戦じゃなか、終戦じゃっで。負けたのじゃない」と言った。弁解に聞こえた。
身内に戦争の犠牲者はいない。米農家で食糧生産を担っていたからなのか、誰も兵隊に取られず、空襲でも大きな被害は免れた。戦争を語る会合にはよく参加しているが、私には語るような、悲しく深刻な体験はない。
「戦争はいけない」という思いは、多くの人が共通認識として持っている。その先が大事だ。先輩たちに戦争への加担を問うと「気付いたときにはどうにもならない。身動きできなくなってしまっていた」と答える。「戦争する国」への歩みにつながる小さな出来事を、しっかり把握できる資質を国民が持たなければならない。
(2024年10月7日付紙面掲載)