戦中戦後は「お国のために」働き、結婚後は嫁ぎ先に尽くす日々…封建的な因習にとらわれた私、救ってくれたのは短歌だった

2025/04/30 11:56
「苦労はしたが、短歌を詠むことで自分を取り戻せたと感じる」と話す石嶺ツヤさん=指宿市西方
「苦労はしたが、短歌を詠むことで自分を取り戻せたと感じる」と話す石嶺ツヤさん=指宿市西方
 今年は昭和100年に当たる。100歳を迎える人たちは、青年期までを軍国主義に染め上げられていく社会で育ち、20歳でその破綻に直面した。以来80年、民主主義国家としての再生とともに、それぞれの人生を歩んできた。29日の「昭和の日」に合わせて、鹿児島県内の3人に激動と変革の時代を振り返ってもらった。(連載「昭和100年と私」㊥より)

■石嶺ツヤさん(鹿児島県指宿市)

 指宿市西方に住む石嶺ツヤさん(99)は、戦中から戦後にかけ社会全体が「お国のために」という空気の中で動員学徒や教師として働いた。結婚後は主婦として夫を支え、嫁ぎ先の両親にも尽くす。封建的な因習にとらわれた自身を解放させ、救ってくれたのが短歌だった。現在も日々の出来事をつづり「石上令」の名で新聞に投稿する。「私たちの世代は貧しく我慢の多い人生だった。自由な今が一番いい」と話す。

 石嶺さんは1925(大正14)年、旧開聞町の農家に生まれた。幼少時の開聞では毎年のように雪が降ったという。

<老いわれの脳裏に止まぬ雪合戦先生方も加ははりませる>

 穏やかな日々は、鹿児島女子師範学校に進学後に変わった。3年生になった40(昭和15)年には授業が減り、軍事教練や奉仕作業が増える。翌年、学徒動員で名古屋市内の軍事工場へ。何を作るか知らされないまま鉄の板を曲げ続けた。空襲警報が鳴り、防空壕(ごう)に逃げることも日常だった。

 43年に卒業すると旧頴娃町の宮脇国民学校に教員として赴任、終戦を迎える。戦中と戦後で子どもに教える内容は正反対になった。戦中に「修身」の教科では歴代天皇について教えたが、戦後は天皇の記述を墨で消した。「本当に戸惑った。民主主義のかけ声のもとで、お国のためにという戦中の厳しい指導は否定され、個人を大切にする教育に困惑する先生もいた」

 22歳になった47年に退職し結婚。「恋愛なんてしたら後ろ指を指される時代」。親が決めた夫の勇さんと会ったのは結婚の1週間前だった。上京して新婚生活を送ったものの、義理の両親を介護するため56年に指宿市の夫の実家に戻った。

 帰郷して高校教諭となった勇さんの転勤で北薩、大隅で暮らし、中学校や高校で臨時教員として働いたこともある。そのときも自分の仕事よりも運転免許を持たない夫の送迎が優先だった。夕方、夫の退勤を待っていると夫の同僚に「家事もしないで車に乗って」とからかわれたこともある。

 「いい教育を受けさせたい」と息子、康人さん(73)は私立の中高一貫校に入れた。仕送りで楽な暮らしではなかったが、一度だけ、日本の経済成長を実感したことがある。学徒動員中に住んだ名古屋へ家族旅行をした。焼け野原だった街にはビルが並び、見違えるほど立派に変わっていた。

 78年ごろには、定年直前の勇さんにがんが見つかった。71歳で亡くなるまで、義母の介護もしながら10年を超える闘病を支え続けた。自分の時間はなく「夫に仕える我慢ばかりの生活だった」と苦笑いする。

 闘病生活を支える中、出合ったのが短歌だった。31文字に素直な思いを乗せると、自分自身を取り戻す感覚があった。現在も毎日のように歌を詠む。自宅にタヌキが侵入したこと、周囲の家が壊されさら地になったことなど日常をつづる。

<山里の西が拓(ひら)かれ夕光(ゆうかげ)が煤(すす)ぶれわが家と皺(しわ)の面(おも
照らす>

 社会で、家庭で、半世紀を超える不自由さを経験したからこそ「自分らしく生きられる今が一番いい」と感じる。

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