経済人と別の「もう二つの顔」で反戦・平和を願い続けた海江田順三郎さん 「大きな損失」「今こそ語って」…関係者ら訃報を悼む

2025/05/06 11:48
鹿児島市日中友好協会総会で中国人留学生とあいさつする海江田順三郎さん(左から2人目)=2002年、同市中央町
鹿児島市日中友好協会総会で中国人留学生とあいさつする海江田順三郎さん(左から2人目)=2002年、同市中央町
 5日に97歳で亡くなった海江田順三郎さんは、高島屋開発(鹿児島市)の社長として天文館の発展に努める経済人の顔とは別に、もう二つの顔があった。日中友好協会長として両国の民間レベルの交流拡大に尽力。郷里が地獄絵図と化した80年前の鹿児島大空襲の語り部としては、平和を願う強い気持ちを訴え続けた。

 鹿児島県や市の日中友好協会長を長年務め、43年を迎える鹿児島市と中国・長沙市との友好都市締結の架け橋となった。在日中国人には、日本語支援や市民との交流の機会を提供。尖閣問題などで両国関係が冷え込むたびに、政治に左右されない草の根交流や相互理解の大切さを説いた。

 海江田さんが残した両国の友好の証しは鹿児島市内に多く残る。太平洋戦争後の混乱で中国に取り残された残留孤児の「中国人養父母」に感謝する碑や、「中国の西郷」とも呼ばれ、孫文らと辛亥(しんがい)革命を指導した長沙市出身の革命家黄興(こうこう)の記念碑がその例だ。

 市民2000人以上が犠牲となった1945年6月17日の鹿児島大空襲では、自宅に無数の焼夷弾(しょういだん)が直撃し、多くの人々と共に火の海を逃げ惑った。戦争末期の空襲を「地獄絵図のよう。今でも夢に出てくる」と語っていた。幾度となく生々しい戦争体験談を伝え、郷土が二度と戦火にさらされることがないよう最晩年まで願い続けた。



 5日に亡くなった海江田順三郎さんは、経済人として長年天文館地区の発展に貢献しつつ、反戦・平和への思いを胸に日中民間交流に尽力した。訃報を受け、県内の関係者からは別れを惜しむ声が相次いだ。

 「日中にとって大きな損失」。鹿児島県日中友好協会の鎌田敬会長(72)は10年来、その揺るぎない平和主義の信念に触れてきた。「複雑な世界情勢だからこそ『日中友好が最大の安全保障』と言い切っていた。先代会長に学んだことは多い」と語る。

 鹿児島華僑総会の楊忠銀会長(88)は「全く威張らない穏やかな人。心の支えがなくなった」と悲しむ。残留孤児のための記念碑建立に触れ、「中国への理解が深く、県内の残留孤児関係者も『海江田さんがいれば心強い』と話していた。間違いなく民間交流の架け橋だった」と声を落とす。

 鹿児島大空襲の語り部でもあった海江田さん。日中交流活動を通して知り合った鹿屋市の作家郷原茂樹さん(81)は、太平洋戦争を題材にした近著を執筆中に取材した。「『竜が走るように山形屋前を炎が通り抜けた』と語る姿に、焼夷弾が市街地を焼け尽くす情景がリアルに浮かんだ。国防を巡り日中関係が不安定な今だからこそ、もう一度語ってほしい」

 県内経済の活性化や人材育成にも力を尽くし、青年会議所やロータリークラブ(RC)の活動に積極的に携わった。50年近く親交のあるワールドサンフーズ(鹿児島市)の川原篤雄会長(76)は「鹿児島市で10番目のRC設立にあたり『地域のために頑張れ』と言われたことを忘れることができない」と振り返った。

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