ボンタンアメ
鹿児島県阿久根市特産のボンタンは、市の木として道の駅のモニュメントや駅前の植栽に登場し、ロードレースの名称にもなった地元の“顔”だ。生産者の減少や相次ぐ鳥獣被害など厳しい環境にあるが、若手生産者らの努力で知名度は向上しつつある。
ボンタンの語源は江戸時代に阿久根へ漂着した中国船の船長、謝文旦と伝わる。もてなしの礼として地元の人々へ送った「朱らん」「白らん」という果実が現在のボンタンとされる。「果肉は赤と白があり、阿久根は赤が多い。甘みが強く皮離れがいい」と、同市山下の尾崎地区でボンタン振興会の会長を務める永井野勇さん(63)。同じ由来をもつザボンや土佐文旦に負けない味の良さが自慢だ。
同地区では昭和20年代、炭焼きの需要減少を受けて青年らが山を切り開き、苗を植えた。当初は加工用が主だったが、後に青果用も生産。贈答用や正月飾りとして親しまれ、皮を使ったボンタン漬けは地元を代表する土産品に育った。
ピークだった1980年頃の生産量は年間約2000トン。国道3号沿いに点在したボンタンの直売所は冬の風物詩になったという。
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ところが現在、その存在感は薄れている。市農政林務課によると、近年はボンタンの年間生産量は180トンあまりとみられる。同じかんきつ類の温州ミカン408トン、大将季を含む不知火(しらぬい)358トン(いずれも2023年)に及ばない。子どもの頭ほどある大きさと分厚い皮が特徴のボンタンだが、食べにくさが敬遠され、次々と登場する新しいかんきつ類に取って代わられた形だ。
かつて90軒ほどあったという生産農家は、高齢化や後継者不足で約20軒に減った。「阿久根を代表する特産品」との誇りを持つ一方で、「ボンタンだけでは食べていけない」「子どもに継いでほしいとは言えない」と悩む声も聞かれる。
近年は鳥獣被害の増加も深刻だ。同市山下にある下薗大樹さん(44)=同市大川=の畑を訪れると、高さ3メートルほどある木の下半分の枝葉は、シカに食べられてなくなっていた。「枝が上ばかりに広がり、木がカリフラワーみたいな形になってしまった。木に負担がかかっているのでは」と心配する。
シカは葉や実をかじって枝を折り、角で幹を傷つけてひどい時には木を枯らしてしまう。大事な実を食べられないよう、木を高くする畑が増えてきた。脚立を使う高所での作業が必要になり、けがを恐れて生産をやめる高齢者も相次ぐ。
市によると、ボンタンの獣害は増加傾向で、24年度の被害面積は0.5ヘクタール。ボンタン農家に対して丈夫なワイヤーメッシュ柵や電気柵の設置を支援しており、22~25年度に計約2.8キロを施工している。尾崎地区でも道沿いに高さ2メートルの柵が並ぶ。だが、傾斜や段差が多く、完全に侵入を防ぐのは難しいようだ。
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苦境にあるボンタンだが知名度は上昇している。若手生産者によるボンタンプロジェクト(通称Bプロ)の「ボンタン湯」の成果だ。2月6日の「風呂の日」に銭湯に実を浮かべるイベントで、17年に鹿児島市内の温泉10カ所で始まった。
ポスターやチラシは、セイカ食品(鹿児島市)の協力で「ボンタンアメ」のレトロなデザインを活用。湯船に浮かぶ大きな果実など「映える」要素を盛り込み、大都市圏へアピールしてきた。果実を使った「ボンタンサイダー」も開発し好評を得ている。
25年は北海道や東京、大阪など300の銭湯が計6000個のボンタンを購入。新型コロナウイルス禍前には500軒、1万個を超えた実績もある。
メンバーの一人である下薗さんは「ボンタンに興味をもってもらえた」と手応えを感じているが、事業拡大は厳しいという。「作り手が少なく供給が足りない」。ボンタンの価値を高め、生産者の増加につなげることもBプロの目標だ。
メンバーは生産をやめた高齢者の畑も引き継いでいる。盛永直樹さん(40)=同市赤瀬川=は「手入れをしないとすぐカズラや雑木に覆われ、周囲の畑の日当たりを遮るので放置できない」。地区をまたいで散らばった畑を手入れに回る人もいる。阿久根名物の復権に向け、汗を流す日々が続く。